文学の授業にて、授業後回収しているシートの中に、次のような質問があった。
『コンビニ人間』が後半に進むにつれ何ともいえない嫌悪感を持ったが、先生は『コンビニ人間』をどう思うか?
恥ずかしながら、私はその時点で『コンビニ人間』を読んでいなかった。
理由がないわけではない。芥川賞受賞の宣伝文句――コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる――に、どうにも興が乗らなかったからだ。規範的な生き方へ疑問を投げかけ、その規範性がいかにチープであるかを暴くような小説――そんな最近よくある物語なのではないかと感じてしまったのだ。
でも、せっかく学生が質問してくれたのだからと、読んでみることにした。
ところが、読了後すぐはすらすら感想が書けると思い、授業内で「ブログにて応答します」と宣言してみたものの、いざ書き出してみると予想外に難しく、まさかこんなに時間がかかってしまうとは思わなかった(昨日このページを訪れてくれた学生さん、本当に申し訳ない)。現在のところ、この小説の評価は私自身の中で錯綜しており、評価4割、疑問6割といったところだ。
だが、それを詳しく語る前に、まず物語の主な登場人物を簡単に振り返ってみよう。
主要登場人物は主に二人。
まず、主人公である古倉恵子。現代における規範から多くの面で外れている36歳未婚女性である。恵子は大学卒業後「定まった」職に就くこともなく、コンビニ店員としてアルバイトをしており、そのバイト歴は18年にもなる。これまで男性と付き合った経験はない。子供の頃、死んでいる鳥を見た際、「かわいそう」と感じず、むしろお父さんの好きな焼鳥の材料になると主張したことで周囲を凍り付かせてしまうなど、周囲からは異質な存在として敬して遠ざけられている。恵子自身、世間と「ずれている」と感じているが、どこが「ずれている」のかはよくわからない。それゆえ、これまで波風を立てぬよう、他人を模倣し、できる限り世間と歩調を合わせる生き方を模索してきた。しかし、その仮面をかぶる試みは実際のところほとんどすべてうまくいかない。唯一コンビニで働くことだけが自分にぴったりとした居場所を提供してくれて、その仕事にやりがいを見出すことができるものだった。
もう一人の重要な登場人物は、物語中盤に現れる白羽という男である。彼もまた定職についていないが、恵子とは違ってむしろ自分を養ってくれるような女性を見つけたいと考えている。規範性を押し付けてくる現代社会には怒りを感じており、現代を「個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にムラから追放されるんだ」と批判する。ただし、同様に規範性から外れている恵子に対しては、「バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い」と、自身が批判する規範的価値観を振りかざして無自覚に彼女を罵倒とする。
そんな二人が同棲を始める、というのが学生が問題としていた物語後半部分である。ルームシェア先を追い出されかけていた白羽を家に泊めてあげた際、恵子は「いい年」した男女は一人で暮らすよりも共に住んだ方が世間から批判されないという「合理的」判断にたどり着く。この利害の一致によって同棲するという点で、『コンビニ人間』は昨年話題となったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』 と似た構造を持っている。ただし、『コンビニ人間』では、社会にある同調圧力のバカバカしさが徹底的に批判されており、二人の世間からの逸脱ぶりは『逃げ恥』の比ではないけれど……
正確なところはわからないけれども、そうした恵子や白羽の規範からの逸脱が極めて強いことが学生の嫌悪感の源になっているのは大いにあるだろう。例えば次のような恵子のセリフはその典型である。
あのね、うちって古いアパートでしょ。白羽さん、古いお風呂に入るくらいならコインシャワーのほうがいいんだって。シャワー代と餌代の小銭をもらってるの。ちょっと面倒だけれど、でも、あれを家の中にいれておくと便利なの。皆、なんだかすごく喜んでくれて、『良かった』『おめでとう』って祝福してくれるんだ。勝手に納得して、あんまり干渉してこなくなるの。だから便利なの(『コンビニ人間』121)
これは白羽を妹に紹介する際の恵子のことばだが、恵子にとっては極めて合理的な判断が、妹にとっては常軌を逸したものにしか感じられない。こうした言葉が、物語後半恵子からは何度も繰り返される。確かに、学生の言わんとするところもわからないではない。違和感や嫌悪感までとはいかずとも、恵子のことばに私も少々うんざりしてしまった。
ただし、この小説で忘れてはならないのは、恵子のこうした状況は周囲の人間たちによる規範的物語の押し付けによってもたらされたということだ。周囲の同調圧力、同じ規範を共有すべしとする圧力にさらされ続けた結果として、恵子はそこから脱出するための術を考えなければならなかった。
だから、もしこのような恵子の言動に嫌悪感を覚えたならば、私たちはやっぱり立ち止まって考えてみる必要がある。それが無意識に抱いている規範から来たものではないのか、あるいは白羽と同様、批判している規範的価値観によって人を批判してはいないのか、と。周囲の規範とは、読者である私たち自身の規範であり、恵子の言動にイライラするのは、自分も他の登場人物と同様その規範を無意識に押し付けているからかもしれないから。
このように自分を省みる小説として、この物語は意義深いと思う。「気持ちよく」はしてくれないけれど、いつもの「気持ちよい」小説がいかに規範的な物語に準拠しているかについても教えてくれる。
とはいえ、引っかかるところもある。それが6割りの疑問の部分だ。
私がそう感じるのは、恵子の冷めたように見える人間との関わり方が、むしろ現代に次第に広がりつつある<利害>、<リスク>、<経済的合理性>を基準とした新たな規範的人間観に立脚しているように思われるからだ。作者がこの点についてどのような立場なのか、この著書を読む限りでははっきりとはわからないけれども、すべてを経済的合理性に基づいてクリアカットに判断しようとする恵子の姿勢には、人間は動物にすぎず、自分の利害、リスクによってしか動かない、とする現在新たに生まれつつある規範的傾向に通底するものがあるように見えてしまう。
もちろん、冒頭に挙げられている恵子の子供の頃のエピソード(死んだ鳥を「せっかく死んでいるのだから食べたらよい」と考えたり、喧嘩している男子を「とめて」と言われれば、その最善の方法はスコップを振り上げて殴ることであると判断・実行したりする)から判断すれば、恵子は先天的に文脈を読み取る能力が欠けており、ことばを辞書的な意味でしかとることができないのかもしれない。
あるいは、物語の焦点はそうした人間が世間の強烈な同調圧力に押しつぶされず、いかに自分らしくあるにはどうするかという点にあるのだから、そうしたことを問題にするのは野暮なのかもしれない。
けれども、世の中に溢れている規範的物語に対置される物語が、すべてを無機質に経済的合理性のみによって判断する生き方の肯定というのでは、なんだか悲しすぎるではないか。現代はもはやそうした物語しか生み出せないのか。そう自問せずにはいられない。
個人が持つ価値観の多様性は保証されるべきだし、無意識的な同調圧力の存在、いわゆる空気の存在に対しては、その力に屈しない社会を築かなければいけない。しかし、同時に今必要なのは、他者との関係を単に利害や干渉とのみ捉えるのではなく、ことばにおいてその隔絶を乗り越えようとすることではないか。孤立化してしまった他者と他者のあいだをつなぐことば(=物語)を構築することが今文学に最も求められている役割なのではないか?
恵子は「世の中の歯車」の一つになることを望み、「世界の部品」になることを望む。恵子にとってそれを叶えてくれる場所こそがコンビニである。他者に自分の物語を押し付けず、完璧な状態のコンビニをお客様に提供するということが無上の喜びという恵子は、きわめて真面目で、倫理的だ。だが、その一方で、恵子が他者と関わる理想的なあり方とはどんなものだろう? 他者との関係とは結局仮面をとっかえひっかえすることだとうそぶいてしまう人が多い現代にあって、恵子の倫理観が逆にそれを下支えしてしまうのではないかということを危惧している。