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バウマンとメディア

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久しぶりにZygmunt Baumanを読んだ。

Liquid Modernityの邦訳で、先日ジュンク堂に行ったときに衝動買いしたものだ。

バウマンは以前ポーの研究発表をする過程でPostmodern Ethicsなどを集中的に読んだが、この『リキッド・モダニティ:液状化する社会』は原文に目を通す程度でしっかり読んではいなかった。

本書はバウマンのそれまでの論考をまとめたものというだけあって、バウマンの現代社会分析が非常に分かりやすく提示されている。取り立てて目新しいことは述べているわけではないが、しごくまっとうなことを説得力ある語り口で論じているので、非常に読み応えがあった。

バウマンはポストモダンという呼び名を採用しない。代りにsolid(固体)とliquid(液体)という比喩を用い、私たちの社会をリキッド・モダン(流動的現代)と呼ぶ。堅固な社会システムを構築した近代に対し、いわゆるポストモダンと呼ばれる私たちの社会はその堅固なシステムが溶解し、液状化してしまった社会とみるからである。これはバウマンの一つの特徴である。

「堅固なものをあらたに、より堅固に作り直すこと」がモダニティであるとするならば、バウマンの規定するリキッド・モダニティはあらたに堅固なものを「作り直す」のではなく、今ある堅固なものを溶かし続けることにある。それは、たとえば、以前の社会のダメなところを破壊し、新たにもっと理想的な社会を作ろうとするのがモダニティであるに対して、そうした理想が失墜し、とにかく今あるものを破壊し続けることに注力している社会がリキッド・モダニティの社会だと捉えればよい。リキッド・モダニティは、「合理性」という物差しに合わせて、それに適合しないものは全て「溶かして」しまう。

私たちは家父長的な家制度から解放され、会社組織的社会から解放され、社会的・宗教的慣習から解放された(もちろん部分的にそうしたものが残っている社会もあるし、地域によってはそれがまだ根強い社会もある。それは時間の流れが土地それぞれによって違うからだ。しかし、全体として解放への流れに乗っていることは間違いない)。それは一見とても「喜ばしい」ことであり、確かに私たちはその「うまい汁」を吸っている。だが、私たちが現在享受している「自由」は、果たして本当に自分で選びとったものなのか? 

社会が経済的合理主義に傾倒する中で、そうしたものにそぐわない価値観が切り捨てられている結果なのではないか? 

バウマンはそう問いかけて、社会が経済によってのみ主導されることで、公共性や倫理性が解体していくことを憂えている。今私たちが共通の尺度をもし持っているとすれば、それは金銭的価値であり、経済的合理性でしかない。彼は言う、「今日的状況は個人の選択の自由、行動の自由を制限すると疑われる手枷、足枷がことごとく溶かされた結果生まれたといえるだろう。秩序の硬直性は人間の自由が蓄積された結果であり産物である。」(『リキッド・モダニティ』8)と。

私が気になったバウマンの論点をひとつ取り上げるとすれば、それは「個人化」。

バウマンは「個人化」について、「アイデンティティを『あたえられるもの』から『獲得するもの』に変え、人間にその獲得の責任、獲得にともなって生じる(あるいは、付随する)結果の責任を負わせることからなる。(『リキッド・モダニティ』42)と述べている。個人化した社会は、すべての責任が個人にあるので、個人は自己とそれに関わることにしか興味を持たない。それ以外のことにかかわったとしても、何の「得」にもならないからだ。ゆえに個人的関心や興味だけが公的空間を占領し、それ以外の関心を公的言説から締め出してしまうことにつながってしまう。

興味深いのは、バウマンがこうした事例のひとつとしてトークショーを取り上げていることである。確かにトークショーこそ個人的な言説を公共電波を使って垂れ流す典型であろう。私はぜんぜん気にしていなかったが・・・・・・ バウマンは言う。

「トークショー中毒を、人間のゴシップ欲を反映した『低俗趣味』だと批判するのは、侮辱であり、認識の誤りであり、誤解である。手段だけが豊富に存在し、目的があやふやな世界にあって、トークショーは人々の真剣な要求にこたえるという、現実的価値をもっている。」(『リキッド・モダニティ』89)

ここで言う人びとの真剣な要求とは何か? それは、自分が生き抜く上での戦略において、まだ自分が気づかなかったものを人が発見しているかもしれない、それを知りたいという要求である。自らの生き抜く技術を磨くため、人は有名人の個人的体験を公共電波を通して聞く。寄る辺ない、先の見えない社会にあっては、著名人の体験が一つの道標にさえなるのだ。

このバウマンのトークショーについての見解はとても面白い。もちろん、ソリッドな近代においてもこうした著名人の伝記などは読まれていたのだから、必ずしもバウマンの言うことすべてが正しいわけではないが、少なくともこの視点は現代の抱えている問題を明るみにだしてくれる。

こうした「個人化」社会と、それに伴う公の場での個人的言説の支配、あるいは公的問題の語られる場の消滅がもたらしたもっとも重要な結果を、バウマンは「政治が崩壊したこと」、「私的問題の公的課題への(あるいは、公的課題の私的問題への)昇華を目的とした、大文字の政治が崩壊したことにある」(『リキッド・モダニティ』91)としている。この意見にも大いにうなずける。

バウマンの論は非常に明快であるぶん、時にちょっと言い過ぎではないかと思わせる箇所や根拠が怪しい箇所が見られる。また、バウマンはリキッド・モダニティの先についても多くを語らない。

しかし、それを差し引いても、バウマンはわれわれに現代社会を読む「視点」を与えてくれるし、それこそが何かを変革していく上で重要であるということを教えてくれる。

~おまけ~
「公」という概念の失墜にあわせて

先日、管総理がなかなか退陣しないことにふれて、なぜ退陣しないのか、「権力にしがみついているからではないか」という見解をメディアを通じて聞いた。また、BSフジのプライム・ニュースでは、「いまどき総理の椅子に座りたいと思う人などいない」と述べた人物に向かって、「そういう権力を持ちたい人間もいるんだ」と言ったコメンテーターもいた。

もはや政治に強大な権力が付与されていた時代は終わりを告げているにもかかわらず、今現在の総理大臣にどんな権力(=うまい汁)があるというのだろうか? 

最近以前にも増して思うのは、マスメディアの批評の物差しが極度に硬直化しているということである。いい意味でも悪い意味でも、世間の風に敏感で、日和見主義的な批評に終始している。

ジャーナリズムは権力の闇を暴き出す仕事だと考える人も多いようだが、果たしてこの二項対立ももはや旧態依然としているのではないか? ジャーナリズムが正義の見方であり、誰も知らないことを暴き出す、みんなが言わないことを言う存在であるというのであれば、ぜひポピュリズムの<罪>も論じて欲しい。タブーを作り出してしまっている状況では、正しい報道はできないだろう。みんなが叩くから叩く、みんなが誉めるから誉めるでは、何の意味もない。むしろ、みんなが叩いているからこそ、そこに「なぜそれほど皆が叩かねばならないか」という疑問を持ち、掘り下げてほしい。

そんなことを最近の報道を見ながら思っている。

福島祥一郎
Commented by 同僚の歴史学者 at 2011-08-25 15:59 x
なかなか魅力的な本のようですね。
「個人化」社会への言及など、一般的な大衆社会論の見方とは全然違った視点で面白そうです。
Commented by shoichi294 at 2011-08-26 12:00
>同僚の歴史学者さん
コメント、ありがとうございます。
そうですね。バウマンは社会学者ですが、けっこう哲学よりだと思うので、必然的に視点も変わってくるかと思います。
かなり多くの訳書も出ていますし、
薄くてリーダブルな原文のものもいくつかあるので、
もしよければ何かひとつ買って読んでみてください。

ふくし
Commented at 2016-01-16 13:52 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shoichi294 at 2016-01-18 00:14
>垂水源之助 様
こちらの著作はまだ読んでおりませんでした。
最近バウマンからは離れていましたが、注文して読んでみようと思います。
示唆に富む情報、ありがとうございました。
by shoichi294 | 2011-08-25 10:53 | 文学・現代思想について | Comments(4)

かつて東京の某理系大学に勤務し、今は京都の女子大に移ったFukushi(福島祥一郎)のブログ。文学から英語、趣味のテニスやcafe、猫の話まで、好きなことを、好きなように書き記す備忘録的ブログです。


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