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 2年前の授業で学生S君が残したことばが忘れられない。


「今の社会は多様性が大切と言いながら全然多様じゃない」


確か、個々に現代社会の問題はどこにあるのかを考えてもらい、グループでの討議を経て、その代表的な意見を黒板に書き出してもらう活動の際のことばだった。


私が学生だった頃にもすでに意見の多様性が大切だとは言われていたが、今の学生は私の頃よりずっとそうしたことを散々言われて育った世代だと思う。


例えば、今の学生に文化相対主義の説明をしても、「そんなのあたりまえじゃない」というような顔でこちらを見てくる。20年前の純朴(?)で無知な学生時代のわたしとはえらい違いだ。


どの文化にもそれぞれに価値があり、その優劣は決められない。


なんだかSMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞みたいだが、もはやミレニアム世代の若者にとって、「みんなに価値があるよ」ということばは「当たり前」であり、そこに何ら新鮮な驚きを発見することはないのだろう。


にもかかわらず、前述のような学生のことばが産まれてしまうのはなぜだろうか。


その一つの大きな要因は、ウェンディ・ブラウンが『いかにして民主主義は失われていくのか』において問いかけるホモ・エコノミクスの問題であるように思う。


ブラウンが述べるとおり、新自由主義が席巻する現代においては、もはやあらゆる人間の活動は経済の言葉に置き換えられてしまい、その価値はもっぱら経済的な<ものさし>によって測られるようになってしまった。


ブラウンは言う、


わたしがこの本全体をつうじて議論していることだが、新自由主義をもっともよく理解するには、それが単なる経済政策ではなく、市場の価値観と評価基準を生活のあらゆる領域へと散種し、人間そのものをもっぱらホモ・エコノミクスとして解釈する統治合理性であると理解するのがよい。新自由主義はそれゆえ、かつては公的に支援され尊重されてきたものを、たんに私有化する――個人の生産と消費のための市場に委ねる――だけではない。むしろ、それはあらゆるものをあらゆるところで、人間そのものを含めて、そして人間だからこそ、資本の投資と評価の観点から規定するのである。(『いかにして民主主義は――』201


 「コストパフォーマンス」や「費用対効果」というような言葉が日常的に使われることからも明らかなように、経済用語はもはやわれわれの生活に深く浸透している。その怖さは、日々そうした言葉に晒される私たち自身が、知らず知らずのうちに経済的な<ものさし>でしか物事を見なくなり、果てはそれ以外の<ものさし>で物事を考えることを不自然だと感じ始めることにある。

 

 生きていくために自らも人的資本として売り出すことを強要される現代では、つまり自分が人材市場でいかに有用な人間であるかを証明することが最も優先される現代では、結局、目の前にある規範を疑うことなく、それに順応して生きることが「一番賢い生き方」である。

 

 疑うことは時間の無駄であり、極めて効率の悪い、不経済な行為であるからだ。

 

 だから、たとえそうした社会のあり様を<おかしい>と思ったとしても、誰も何も言わないし、口に出したところで無意味に感じられてしまう。また、誰もが口をつぐむことで、その<おかしい>と思う感覚は誰からも励まされることがない。

 

 とすれば、先のS君のことばは必然であろう。現代の格付け社会にあっては、平等な社会における多様性とはほとんど絵に描いた餅である。


 この事態は現代のあらゆる局面で起こっているが、ブラウンが指摘するとおり、大学もその例外ではないところが全く嘆かわしい(ブラウンの紹介するアメリカの州立大学の現状は衝撃的であり、日本もこの後を追っているのかと思うとめまいがする)。


 本来社会の規範的価値観の問題点を批判的に考察すべき場であるはずの大学は、いまや生き残りを名目に、企業以上に人件費の切りつめを行い、民主主義の社会を構成する市民としての教養教育にほとんど重きを置いていない。


 最小の入力で最大の効果を出す効率性を重視し、知識は、「市民の能力を開発するため、文化を維持するため、世界を知るため、あるいは共同生活の異なる方法を創造したり、つくりだしたりするため」(『いかにして民主主義は――』203)ではなく、もっぱら資本の増大に貢献するためだけに必要とされる。


 大学までがポピュリズム化し、世間の風潮に迎合してしまえば、誰がものを言うことができるのか。第二次世界大戦における全体主義への沈黙・加担の構造は、今ひたひたとわれわれに迫りつつあるような気がしてならない。


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少し前の話になるが、昨年末の1227日、川越スカラ座にて2012年(日本では2013年)公開の映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞した。


その前日、いつもお世話になっている先生と飲んだ際、「スカラ座でアーレントの映画がやっている」との情報を聞いたからだ。


調べてみれば、映画の公開は27日で終わるとのこと。これはどうしても見なければいけない、そう思った私は、冬休み早々9カ月の息子を妻に任せてひとり映画におもむいた。(「文学研究者たるもの、やはり映画館における映画鑑賞は欠かすことのできない文化的営為である」との理由(?)を快く聞き入れてくれた妻に感謝!!!)


映画を見ると、アーレントの慧眼と使命感の強さに深い感動を覚えずにはいられなかった。


アーレントがアイヒマン裁判を傍聴しそこで見たもの、それは怪物的な究極の悪ではなく、善悪について思考することなしに、ユダヤ人絶滅計画をただ自らに課された「役割」として遂行していく凡庸な男の姿であった、というのは有名な話である。


だが、そうしたアーレントの見解に対し、絶対的悪魔としてのアイヒマン像を求める周囲の圧力、特に同朋であるユダヤ人からの圧力は相当なものであったことが、この映画を見るとよくわかる。アーレントは、そうした中でも、単にアイヒマンを怪物として扱うことを拒み、自らの考えを真摯に貫き続ける。その姿勢は痛ましくも、あまりに感動的である。


われわれとは異なる<悪魔>としてアイヒマンをみなし、彼を<対岸>のものとして考えることは簡単である。しかし、自らとは<絶対的に異なるもの>としてアイヒマンを考えることは、アイヒマンの行為そのものに潜む「われわれの問題」から目を背けることになる。そしてこのことは現代にもまったく当てはまるだろう。


アーレントの生きた時代よりもさらに個人化した現代社会においては、考え抜かれた「意見」を互いに交わすことのできる公共空間はほとんど消滅してしまった。そこには<好き>か<嫌い>かという感情しか存在しない。大学の教員間ですら、互いの専門分野を超えた公共的な議論の空間は霧消している。


そうした現代において何か問題が発生した時、われわれはアイヒマンと同様、<凡庸な悪>を繰り返してはいないだろうか。組織の命じることに対して倫理的な判断を停止し、それをただ遂行することのみに意識をむけてはいないだろうか。関心を自らの周囲にあるものに限定し、それ以上については考えることをやめ、手近な誰かの考えを自らの意見として吹聴してはいないだろうか。


昨今の大手企業における数値改ざんの不正事件や、成人式当日に預かった着物を持ち逃げし、着付けの仕事を放棄したハレノヒに代表される無責任さは、まさにわれわれ現代の危機を象徴していると言える。


アイヒマンに代表される問題を<極端な話>として片付けてはいけない。


柄谷行人は、「ノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解する」ためには、例外的な状況を考察する必要があると述べている(『<戦前>の思考』「議会制の問題」46)。


まさに例外状況の中に、われわれ自身の問題を考察する手掛かりがある。


<凡庸な悪>へと陥る穴は、いつも口を開いている。


アーレントの言う<思考する>ことを止めたとき、われわれは知らずその穴の中に落ちてしまうだろう。


この記事を年頭にあげることで、わたし自身、新しい年を迎えるにあたっての自らへの戒めとしたい。


<倫理的なことば>は常に自らに返ってくるのだから。


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文学の授業にて、授業後回収しているシートの中に、次のような質問があった。

『コンビニ人間』が後半に進むにつれ何ともいえない嫌悪感を持ったが、先生は『コンビニ人間』をどう思うか?

恥ずかしながら、私はその時点で『コンビニ人間』を読んでいなかった。

理由がないわけではない。芥川賞受賞の宣伝文句――コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる――に、どうにも興が乗らなかったからだ。規範的な生き方へ疑問を投げかけ、その規範性がいかにチープであるかを暴くような小説――そんな最近よくある物語なのではないかと感じてしまったのだ。

でも、せっかく学生が質問してくれたのだからと、読んでみることにした。

ところが、読了後すぐはすらすら感想が書けると思い、授業内で「ブログにて応答します」と宣言してみたものの、いざ書き出してみると予想外に難しく、まさかこんなに時間がかかってしまうとは思わなかった(昨日このページを訪れてくれた学生さん、本当に申し訳ない)。現在のところ、この小説の評価は私自身の中で錯綜しており、評価4割、疑問6割といったところだ。

だが、それを詳しく語る前に、まず物語の主な登場人物を簡単に振り返ってみよう。

主要登場人物は主に二人。

まず、主人公である古倉恵子。現代における規範から多くの面で外れている36歳未婚女性である。恵子は大学卒業後「定まった」職に就くこともなく、コンビニ店員としてアルバイトをしており、そのバイト歴は18年にもなる。これまで男性と付き合った経験はない。子供の頃、死んでいる鳥を見た際、「かわいそう」と感じず、むしろお父さんの好きな焼鳥の材料になると主張したことで周囲を凍り付かせてしまうなど、周囲からは異質な存在として敬して遠ざけられている。恵子自身、世間と「ずれている」と感じているが、どこが「ずれている」のかはよくわからない。それゆえ、これまで波風を立てぬよう、他人を模倣し、できる限り世間と歩調を合わせる生き方を模索してきた。しかし、その仮面をかぶる試みは実際のところほとんどすべてうまくいかない。唯一コンビニで働くことだけが自分にぴったりとした居場所を提供してくれて、その仕事にやりがいを見出すことができるものだった。

もう一人の重要な登場人物は、物語中盤に現れる白羽という男である。彼もまた定職についていないが、恵子とは違ってむしろ自分を養ってくれるような女性を見つけたいと考えている。規範性を押し付けてくる現代社会には怒りを感じており、現代を「個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にムラから追放されるんだ」と批判する。ただし、同様に規範性から外れている恵子に対しては、「バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い」と、自身が批判する規範的価値観を振りかざして無自覚に彼女を罵倒とする。

そんな二人が同棲を始める、というのが学生が問題としていた物語後半部分である。ルームシェア先を追い出されかけていた白羽を家に泊めてあげた際、恵子は「いい年」した男女は一人で暮らすよりも共に住んだ方が世間から批判されないという「合理的」判断にたどり着く。この利害の一致によって同棲するという点で、『コンビニ人間』は昨年話題となったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』 と似た構造を持っている。ただし、『コンビニ人間』では、社会にある同調圧力のバカバカしさが徹底的に批判されており、二人の世間からの逸脱ぶりは『逃げ恥』の比ではないけれど……

正確なところはわからないけれども、そうした恵子や白羽の規範からの逸脱が極めて強いことが学生の嫌悪感の源になっているのは大いにあるだろう。例えば次のような恵子のセリフはその典型である。

あのね、うちって古いアパートでしょ。白羽さん、古いお風呂に入るくらいならコインシャワーのほうがいいんだって。シャワー代と餌代の小銭をもらってるの。ちょっと面倒だけれど、でも、あれを家の中にいれておくと便利なの。皆、なんだかすごく喜んでくれて、『良かった』『おめでとう』って祝福してくれるんだ。勝手に納得して、あんまり干渉してこなくなるの。だから便利なの(『コンビニ人間』121)

これは白羽を妹に紹介する際の恵子のことばだが、恵子にとっては極めて合理的な判断が、妹にとっては常軌を逸したものにしか感じられない。こうした言葉が、物語後半恵子からは何度も繰り返される。確かに、学生の言わんとするところもわからないではない。違和感や嫌悪感までとはいかずとも、恵子のことばに私も少々うんざりしてしまった。

ただし、この小説で忘れてはならないのは、恵子のこうした状況は周囲の人間たちによる規範的物語の押し付けによってもたらされたということだ。周囲の同調圧力、同じ規範を共有すべしとする圧力にさらされ続けた結果として、恵子はそこから脱出するための術を考えなければならなかった。

だから、もしこのような恵子の言動に嫌悪感を覚えたならば、私たちはやっぱり立ち止まって考えてみる必要がある。それが無意識に抱いている規範から来たものではないのか、あるいは白羽と同様、批判している規範的価値観によって人を批判してはいないのか、と。周囲の規範とは、読者である私たち自身の規範であり、恵子の言動にイライラするのは、自分も他の登場人物と同様その規範を無意識に押し付けているからかもしれないから。

このように自分を省みる小説として、この物語は意義深いと思う。「気持ちよく」はしてくれないけれど、いつもの「気持ちよい」小説がいかに規範的な物語に準拠しているかについても教えてくれる。

とはいえ、引っかかるところもある。それが6割りの疑問の部分だ。

私がそう感じるのは、恵子の冷めたように見える人間との関わり方が、むしろ現代に次第に広がりつつある<利害>、<リスク>、<経済的合理性>を基準とした新たな規範的人間観に立脚しているように思われるからだ。作者がこの点についてどのような立場なのか、この著書を読む限りでははっきりとはわからないけれども、すべてを経済的合理性に基づいてクリアカットに判断しようとする恵子の姿勢には、人間は動物にすぎず、自分の利害、リスクによってしか動かない、とする現在新たに生まれつつある規範的傾向に通底するものがあるように見えてしまう。

もちろん、冒頭に挙げられている恵子の子供の頃のエピソード(死んだ鳥を「せっかく死んでいるのだから食べたらよい」と考えたり、喧嘩している男子を「とめて」と言われれば、その最善の方法はスコップを振り上げて殴ることであると判断・実行したりする)から判断すれば、恵子は先天的に文脈を読み取る能力が欠けており、ことばを辞書的な意味でしかとることができないのかもしれない。

あるいは、物語の焦点はそうした人間が世間の強烈な同調圧力に押しつぶされず、いかに自分らしくあるにはどうするかという点にあるのだから、そうしたことを問題にするのは野暮なのかもしれない。

けれども、世の中に溢れている規範的物語に対置される物語が、すべてを無機質に経済的合理性のみによって判断する生き方の肯定というのでは、なんだか悲しすぎるではないか。現代はもはやそうした物語しか生み出せないのか。そう自問せずにはいられない。

個人が持つ価値観の多様性は保証されるべきだし、無意識的な同調圧力の存在、いわゆる空気の存在に対しては、その力に屈しない社会を築かなければいけない。しかし、同時に今必要なのは、他者との関係を単に利害や干渉とのみ捉えるのではなく、ことばにおいてその隔絶を乗り越えようとすることではないか。孤立化してしまった他者と他者のあいだをつなぐことば(=物語)を構築することが今文学に最も求められている役割なのではないか?

恵子は「世の中の歯車」の一つになることを望み、「世界の部品」になることを望む。恵子にとってそれを叶えてくれる場所こそがコンビニである。他者に自分の物語を押し付けず、完璧な状態のコンビニをお客様に提供するということが無上の喜びという恵子は、きわめて真面目で、倫理的だ。だが、その一方で、恵子が他者と関わる理想的なあり方とはどんなものだろう? 他者との関係とは結局仮面をとっかえひっかえすることだとうそぶいてしまう人が多い現代にあって、恵子の倫理観が逆にそれを下支えしてしまうのではないかということを危惧している。


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先日(といってももう半月以上前のことだけれど…)、ある同僚から以前書いた書評についてことばをかけてもらった。

それは教職員向けの会報に毎月掲載される「私の一冊」というリレー式の小さなコラムで、ほとんど誰も気にかけていないようなものだった。

だから、「読みましたよ」という予想外のことばがすごく嬉しく、またずいぶん励まされる気持ちになったのを覚えている。

取るに足らないコラムではあるけれど、それなりに真面目に、伝えたいと思うことを書いたつもりだったので、その思いを汲んでくれる同僚の存在がとても有り難く、また頼もしく思えたからだ。

そして今、ある学生を研究室で待ちながら、ふとその小さな書評のことを思い出し、ブログに挙げてみたい気になった。

なぜそんな気になったのか、自分でもいまいちよくわからない。

雪の降る中、その学生との面談があるからと大学に来てみたけれど、学生は一向に姿を現さず、ぽっかりと空いてしまった時間を持て余してしまったからかもしれない。

あるいは、重松清の小説にベケットの『ゴドーを待ちながら』をもじった「後藤を待ちながら」という短編があり、その連想がいくつもの連想を呼んだ結果なのかもしれない。

うーん……前置きが長い! とりあえず書評、挙げます。
読んで頂き、重松清の『十字架』を手に取ろうという気になってもらえれば(「後藤を待ちながら」でもOKですけれど)、これ以上の喜びはありません。

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重松清『十字架』(講談社文庫)

近年、「ポジティブであることの大切さ」が喧しく叫ばれています。悲劇的な描写を含む物語は「悲しくなるから」という理由で嫌われ、前向きであり、「スカッ」とストレスを発散させてくれるような物語が好まれる傾向にあるようです。もちろん、ポジティブであることは大切ですし、一歩前に踏み出すことの重要性は言うまでもありません。ただ、もしそれが見たくないものから目を背けるための方便として、あるいは悲劇的な事実を考えることを避けるための言い訳として使われているならば、どうでしょう。紹介する重松清の『十字架』は、そんなことを改めて考えさせてくれる本です。

物語は、中学時代のクラスメイトの自殺について、主人公である真田ゆうが過去を追想するという形式で語られます。20年前、裕のクラスメイトである藤井俊介はいじめに悩み、自死を選びました。その際、遺書に「真田裕様。親友になってくれてありがとう」ということばを残します。ところが、実は裕と俊介は中学に入ってから疎遠であり、しかも俊介がいじめられていたとき裕はただ黙って見ている側に立っていたのです。裕はなぜ親友と呼ばれたのかわからず、またそのことばの重みに苦しみます。しかし、他のクラスメイトのように、直接いじめに関わっていないことを言い訳に事件から逃げることはできず、残された遺族との関係の在り様を模索しながら、長い年月をかけその出来事の「十字架」を引き受けようと努力します。

重松清らしい簡潔な文体は、読み手の心に直に届き、本当に一歩を踏み出すとはどういうことかを私たちに問いかけます。是非読んで頂きたい一冊です。


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昨日トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。

専門家も含め、ほとんど誰もが大統領選挙に勝つとは思っていなかった。

しかし、英国のEU離脱のときと同様、「そこまでは起こらないだろう」ということが現実に起る結果となった。

実は先週11/4にブログを久しぶりに更新しようと思い、次のようなことを書き出していた。

<アメリカ大統領選挙に思うこと>

来週の投票を控え、またトランプ氏が盛り返しているという。

世論調査によれば、二週間ほど前には78ポイントほどあった差が、現在ではほとんどなくなっているとのこと。

以前どこかのテレビ局の街頭インタビューで、一人のアメリカ人(その人は白人男性であったが、バックグラウンドまではわからない)が語っていたことが印象的だ。

彼の趣旨は、トランプのダメさ加減はわかっている、けれども、それでも一度彼にやらせてみてもよいのでは、というものだった。

変化への渇望。

そこには既存の体制への失望と嫌悪がある。


もちろん、この時点で、まさかトランプが実際に勝利してしまうとは考えていなかった。その意味で私は、アメリカの特に白人低所得者層に渦巻く不満、不安、憎悪を全く見誤っていたと言える。だが、トランプの掲げる政策(?)によっては何も変わらないと考えるひとが、つまり本質的な問題はそこにはないと考えるひとがもっと多いだろうと考えていた。


一夜が明け、今後起こるであろうことも含め、今世界で何が起こっているのかを読むことができないでいる。自らの勉強不足を恥じるばかりであるが、リーマンショックという経済恐慌を経て
8年、保護主義へと走る姿勢はどこか第二次世界大戦前夜に似ているようにも映る。

グローバリズムによる国境破壊の終焉とみる向きもあるが、果たしてそれはグローバリズムによってもたらされた絶望的なほどの格差拡大を解決することにつながるのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。

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年初には今年こそ定期的な更新をと思いながら、またもその決意を反故にしかけている自分が情けない。だが、今月から雑感という形で、月に一度は何か書いていきたい。(と考えたのが6月下旬。そこからグズグズしている間に月を跨いでしまい、7月となってしまいました。。。ですが、タイトルは「7月雑感」とはしないでおきます。)


まずジョコビッチについて。


このブログの実質的最初の記事であるテニスのジョコビッチが生涯グランドスラム(=キャリア中に4つのメジャー大会を優勝すること)を達成した。もう時機を逸してしまったし、次のグランドスラムであるウィンブルドンも始まっており、何よりジョコビッチが負けそうになっている現在(*昨夜、サム・クエリーに2セットを先取されたところで日没順延となり、かろうじて残っている状態)、イマサラ感は否めないのだけれど、記念的・備忘録的な意味で、一ファンとして何か記事を書いておきたいなと思う。


2008年に私自身が12年ぶりにテニスを再開したとき、私とグリップの握りが似ているからというただそれだけの理由から、その年の全豪オープンを優勝したジョコビッチに注目するようになった。しかし、ジョコビッチはその最初のグランドスラムを取って以降三年間、一度もグランドスラムを取ることはできなかった。フェデラーとナダルの影でもがき続け、常に二人の後塵を拝し、さらにはデルポトロら下の世代にも迫られる、そんな時期が続いた。


フォアハンドもバックハンドも穴がなく、ベースライン際では無類の強さを発揮するのに、せっかく追い詰めたところでスマッシュミス。相手選手がロブをあげるたびにはらはらした。平常心ではほとんどミスをせず精密機械と言われているのに、大事なポイントでビビってしまい、守りに入る。むなしくネットにかかるドロップショットミスを何度見たかしれない。当時WOWOW解説者だった柳さんからは「なんで[ふつうに]打たないんですかねー」と言われてしまう始末。だから、いずれナンバー1になることはあっても、グランドスラムを数度優勝することはあっても、まさかグランドスラムを12回も優勝し、生涯グランドスラムまで達成するような選手になるとは想像もしていなかった。


もちろん、当時もランキングナンバー3の選手であり、トッププロ中のトッププロだったのだから、強いのは当たり前だ。しかし、ジョコビッチには強さとともに弱さが同居していた。それは技術的な面でも、精神的な面でも。素人の私がこんなことを言うのも本当におこがましいのだが、試合中の精神的な起伏の激しさは、当時のジョコビッチの試合を見たものであればどんな人でもすぐに気づいたはずだ。


しかし、ある意味で、そうした危うさがジョコビッチの独特の魅力となっていた。飽きることなく応援を続けることができたのも、そのことが大きかったのかもしれない。例えば、2010年の全米オープン準決勝。全米では一度も勝ったことのないフェデラーに、弱気なショットからダブルのマッチポイントを握られたときのジョコビッチは忘れられない。またフェデラーに勝てないのか。誰もがそう思ったそのときそれまでの弱気を払しょくし、クロスにフォアハンドのリターンエースを決めてみせた。その攻めの姿勢により最終的にジョコビッチは初めて全米でフェデラーより勝利をもぎ取るのだが、そこにはそれまで3年間のドラマが凝縮されているような瞬間であったと思う。


この2年ほどのジョコビッチは本当に当時とは別次元のようなテニスを展開している。そこには観るものの想像を超える恐ろしいまでの努力があったのだろうと思う。有名なグルテン・フリーによる食事制限はもちろんのこと、毎年毎大会、自分に足りない技術を習得して大会に臨み、かつて苦手であったはずのスマッシュやボレーは改善され、特にドロップショットなどは今やジョコビッチの武器のひとつとすらなっている。フォアハンドのアングルショット、バックハンドのダウンザラインの精度も以前とは比べ物にならず、(時々ラケットをバキバキにする悪癖はあるにせよ)メンタルの起伏も驚くほどになくなった。


それでも、生涯グランドスラムのかかった全仏は特別な舞台であった。昨年は本当に完璧なテニスでナダルに勝利したにもかかわらず、決勝ではワウリンカに敗れてしまった。肉体的な疲労もあったろうが、やはり勝ちたいと思ったときの精神的なコントロールが難しかったのだろうと思う。そして表彰式で流した涙。その涙が今年報われたということは、本当に本当にうれしい(その陰でグランドスラム決勝10回目にして8敗目を喫したマレーの悔しさに満ちた表情も忘れられないけれど。本当にいろいろなドラマがあるなぁ)。


生涯グランドスラムも達成により、ジョコビッチはウィンブルドンでは早々に負けてしまうかもしれない。ファンとしても、ちょっとほっとしてしまっているところがあって、もちろん年間グランドスラムやゴールデンスラムを達成してほしいのだけれど、なんだかそれは欲張りすぎるかなとも思ってしまう。このあたりでフェデラーの復活や、錦織のグランドスラム初優勝(それはなんだか全米で達成されそうな気がするし、その方がドラマ性もあってよいかなとも思ったり)も見てみたい気もするが、さてどうなるだろう。

 
 長くなってしまったので、ひとまずここまで。

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一昨日、年初に企画した今野晴貴氏の特別講演「ブラックバイト問題の背景と対処術」を無事終えることができた。このブログで事前告知をしようと思ったのだけれど、閑散としたこのブログでは効果もないし、何より今回は大学内の学生・教職員向けとして企画したため、やらないほうが良いかなと思い直し、やめにした。(でも、事後告知なら良いかな、ということで今書いている次第。。。)


今野晴貴氏は言わずと知れた「ブラック企業」という言葉を世に広めた著名人であり、そうした方が縁もゆかりもない私のような一大学人の講演依頼を即快諾してくださるなんて、まさに夢のようであった。


また、満足な講演料もお渡しできない中、学生や教員を啓発したいという使命感から、A4レジュメ9枚にわたる熱のこもった講演をしていただいたことに、本当にありがたい気持ちでいっぱいである。この場を借りて改めて感謝申しあげたい。


実際に現場で日々問題と向き合っている今野氏の言葉はとても重く、また氏が実際に携わった事例から見えてくるブラックバイト問題の根深さに、学生たちの目の色は講演中どんどん変わっていったのが印象的だった。


普段なかなか自分から質問しようとしない学生が多い電大において、質疑応答で積極的に挙手する学生の姿は忘れられない。


150名以上の参加者それぞれが、自分なりに問題意識を形成し、困難な状況に直面した時の考える礎となってくれれば、企画者としては望外の喜びである。


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夏休みにひとつぐらいは投稿を、と思いつつ、激変する日本の政治状況への理解を深めようと乱読していたら、もう夏休みが終わってしまった。

日本についてはまた別の機会にじっくりと書こうと思うが、ふと海の向こうのアメリカに目を転じてみれば、共和党の予備選挙がずいぶんなことになっている。もちろんトランプ氏の問題もあるのだが、CNNの次の一節を読み、何だか今の日本を包む雰囲気と通底するものを感じ暗澹としてしまった。

The top three contenders underscore a key theme in the 2016 race: In a jampacked GOP presidential field, the leading candidates are the only ones who have never held political office.

http://edition.cnn.com/2015/09/20/politics/carly-fiorina-donald-trump-republican-2016-poll/index.html?iid=ob_article_organicsidebar_expansion&iref=obnetwork


記事はトランプ氏が支持を落とす代わりにフィオリーナ氏が支持を大きく伸ばし二番手に躍り出たというもの。現段階における支持は今後大きく変動する可能性があり、それほど重要視する必要はないのかもしれない。しかし、引用した記事の中で、上記二氏に加え三番手に付けるカールソン氏まで、三人とも政治経験がないという点には少々驚いた。CNNがそれをa key theme(鍵となるテーマ)と述べているのはさすがだが、乱立する候補者の中でそうした人物が出てくる背景には、現行の政治状況へのいかんともし難い憤懣と閉塞感が渦巻いているのだろう。


何より危惧されるのは、こうした状況でアメリカがより「反知性主義」の方向へ進みかねないことである。「無教養主義」という意味での「反知性主義」の広がりはアメリカで(そして日本でも)現在顕著に見られる傾向である。「反知性主義」の最も恐ろしいところは、今を生きる自分の感覚にのみ依拠することにより、歴史を省みる視点、そして自己を省みる視点が欠けていくことにある。自分の感覚の絶対化(=自分が感覚的におかしいと思うことは、きっと間違っているに違いないと思い込むこと)は、やがて自分を相対化する目を失い、自分と同じ意見のものしか目を向けることがなくなっていく。その先にあるのは、果たして……


とはいえ、この夏の勉強では、それをどのように克服していけばよいのか、そのヴィジョンは見出せていない。こうした状況と闘うための「ことば」、あるいは理論的な構築は必須であるが、それはどのようなものなのか。あるいはそうした理論的構築だけでよいのか。混迷の時代にその方向性を見出すことは急務である。


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