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ある学生を待ちながら――小さな書評:重松清『十字架』


先日(といってももう半月以上前のことだけれど…)、ある同僚から以前書いた書評についてことばをかけてもらった。

それは教職員向けの会報に毎月掲載される「私の一冊」というリレー式の小さなコラムで、ほとんど誰も気にかけていないようなものだった。

だから、「読みましたよ」という予想外のことばがすごく嬉しく、またずいぶん励まされる気持ちになったのを覚えている。

取るに足らないコラムではあるけれど、それなりに真面目に、伝えたいと思うことを書いたつもりだったので、その思いを汲んでくれる同僚の存在がとても有り難く、また頼もしく思えたからだ。

そして今、ある学生を研究室で待ちながら、ふとその小さな書評のことを思い出し、ブログに挙げてみたい気になった。

なぜそんな気になったのか、自分でもいまいちよくわからない。

雪の降る中、その学生との面談があるからと大学に来てみたけれど、学生は一向に姿を現さず、ぽっかりと空いてしまった時間を持て余してしまったからかもしれない。

あるいは、重松清の小説にベケットの『ゴドーを待ちながら』をもじった「後藤を待ちながら」という短編があり、その連想がいくつもの連想を呼んだ結果なのかもしれない。

うーん……前置きが長い! とりあえず書評、挙げます。
読んで頂き、重松清の『十字架』を手に取ろうという気になってもらえれば(「後藤を待ちながら」でもOKですけれど)、これ以上の喜びはありません。

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重松清『十字架』(講談社文庫)

近年、「ポジティブであることの大切さ」が喧しく叫ばれています。悲劇的な描写を含む物語は「悲しくなるから」という理由で嫌われ、前向きであり、「スカッ」とストレスを発散させてくれるような物語が好まれる傾向にあるようです。もちろん、ポジティブであることは大切ですし、一歩前に踏み出すことの重要性は言うまでもありません。ただ、もしそれが見たくないものから目を背けるための方便として、あるいは悲劇的な事実を考えることを避けるための言い訳として使われているならば、どうでしょう。紹介する重松清の『十字架』は、そんなことを改めて考えさせてくれる本です。

物語は、中学時代のクラスメイトの自殺について、主人公である真田ゆうが過去を追想するという形式で語られます。20年前、裕のクラスメイトである藤井俊介はいじめに悩み、自死を選びました。その際、遺書に「真田裕様。親友になってくれてありがとう」ということばを残します。ところが、実は裕と俊介は中学に入ってから疎遠であり、しかも俊介がいじめられていたとき裕はただ黙って見ている側に立っていたのです。裕はなぜ親友と呼ばれたのかわからず、またそのことばの重みに苦しみます。しかし、他のクラスメイトのように、直接いじめに関わっていないことを言い訳に事件から逃げることはできず、残された遺族との関係の在り様を模索しながら、長い年月をかけその出来事の「十字架」を引き受けようと努力します。

重松清らしい簡潔な文体は、読み手の心に直に届き、本当に一歩を踏み出すとはどういうことかを私たちに問いかけます。是非読んで頂きたい一冊です。


by shoichi294 | 2016-11-24 16:14 | 文学・現代思想について | Comments(0)

かつて東京の某理系大学に勤務し、今は京都の女子大に移ったFukushi(福島祥一郎)のブログ。文学から英語、趣味のテニスやcafe、猫の話まで、好きなことを、好きなように書き記す備忘録的ブログです。


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