見ることと全体性:内田樹『レヴィナスと愛の現象学』について①
2015年 03月 10日
1年半ぶりの投稿。
正直このブログをどうしたものかと思っていたが、やはりこういう発信媒体も必要だと年初に思い直し再開を決意。しかし、先月の26日から今月1日までニューヨークで開催されていた第四回国際ポー学会での口頭発表の準備に忙殺され、結局こんなに記事を書くのが遅くなってしまった(このブログを奇特にもこれまで読んでくださったことのある方なら、毎度のこととご理解していただけることと思います)。
とはいえ、年初にすでにいくつか記事のアイディアはあり、そのひとつが今回取り上げた、内田樹氏の著作『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)についてである(以下敬称略)。
内田樹の著作はこれまでにもそれ相応の数を読んできたが、この著作はこれまで読んだどの著作よりも素晴らしいものだと思う。『ためらいの倫理学』も『他者と死者』も『街場の教育論』も好きだけれど、これはそれらを超えるものではないか。それは彼のレヴィナスへの「愛」の深さゆえだろうか。
この著書は次の3つの章から成り立つ。
1章 他者と主体
2章 非‐観想的現象学
3章 愛の現象学
前半の2つの章で特に目を引くのは、レヴィナスの「他者」についての深い洞察である。レヴィナスの著作を横断的に引用しながら、レヴィナスが示そうとする「他者」の難解さがどこにあるのか、内田はその要諦を見事に解きほぐす。後半の「愛の現象学」においては、父権性的女性論として非難されることの多いレヴィナスの「住まい」と「女性的なもの」を巡る考察について、なぜあえてレヴィナスは誤解を受けるような用語を使って論を構築したのかという独自の疑問から、レヴィナスのことばの裏側に潜む思想性を掘り起こす。
と書き出してみたが、やはりそれぞれの章が非常に凝縮した中身の濃い論であるため、なかなか一度ではまとめきれなさそうである(まとめられるかさえわからないけれど……)。よって、今後数回に分けて記事を書くことにして、今回はまず第一章で特に興味深いと思われる、レヴィナスの他者論と二つの「私」のあり様についてちょいと考えてみたい。
レヴィナスの他者の難解さ――内田によれば、その理由の一つは、それが「難解な概念」であるというよりは、むしろ「他者」が「そのつど「私」と同時に新たに生起する」(70)からである。「私」と「他者」は「あらかじめ独立した二項として、自存的に対峙しているのではなく、出来事として同時に生成する」(70)。つまり、「私」のあり様によって「他者」のあり様も変わってくるということなのだ。
内田の整理によれば、私のあり様には二つの様態があるという。
①「全体性を志向する私」⇒術語的には「自己」(Soi)/オデュッセウス的
②「無限を志向する私」⇒主体/アブラハム的
しかしながら、①のような私のあり様では、「他なるもの」は自分とは絶対的に異なる「他者」として現れることはない。それは常に自己によって征服され、所有され、統合されてしまうからだ。以下、長いが内田の説明を引用する。
オデュッセウスの冒険は、「未知なもの」を絶えず「既知」に還元することをその本義とする。彼が異郷を彷徨うのは、より包括的な全体性を構築するため、彼の「世界カタログ」をより精密で豊かなものにするためである。
オデュッセウス的「自己」にとって「他なるもの」(l’autre)とは、「自己ならざるもの」一般のことである。それらは経験され、征服され、所有されるためにのみ存在する。「他なるもの」はたしかに一時的には「非-自己」、つまり自己とは異他的なものとして認知されはするのだが、それは「同一者」(le Même)の帝国のうちに最終的に統合されるためにである。「未知の大陸」の未知性が高ければ高いほど、それを既知に回収したいと望む帝国主義的開拓者の冒険心は高揚する。自己にとっての「非‐自己」自己にとっての非-自己の異他性とは、そのようにして同化・吸収の欲望を亢進させるものに他ならない。(71‐72)
全体性を志向する「自己」には「外部」がない。というより、「自己」は構造的に「外部」を持つことができないのである。なぜなら、全体性志向とは「理解を超えるもの」を命名し、「おのれの容量を超えるもの」を適正なサイズに切り縮める、脈絡なく散乱したものを一つの「物語」のうちに取りまとめる、人間に授けられた法外な知的能力の別名だからである。
だから、理解を超えるものや、巨怪なものは、「自己」にとって、いささかも忌避すべきものではない。「自己」は絶えず「未知のもの」を新たな征服対象として探し求める。「他なるもの」が自己に摂取され、自己を富裕化し、自己を豊かに養ってくれるからである。この「他なるものの『同一者』への変質」(TI, p.113)こそが「自己」の本質なのである。(72)
これに対して、アブラハム的な「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」(l’absolument autre)すなわち「他者」(Autrui)である。「他なるもの」と「他者」は言葉は似ているが、峻別されなければならない。(76)
私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。「他者」は私の全能性の翳りのうちに住まうのである。(78)
オデュッセウス的自己は、「他なるもの」を経験しつつ、「私はいま……を経験している」というふうに、「経験しつつあるおのれ」を冷静に記述している「まなざし」に自己同定する。出来事の渦中にありながら、それを局外から記述する視点にシームレスに移行することができるその「後退」の能力、それがオデュッセウス的主体の生命線である。まるで一枚のガラスが世界と私とを隔てているように、「他者」の「他者性」は私から隔絶されている。それがオデュッセウス的主体の孤独の様態である。オデュッセウス的主体は出来事を経験しつつ、実は、それに「かかわりを持たない」(non-engagement)のである。「すべてが与えられているのだが、そのすべてがよそよそしい」(EE, p.144)のである。(81)
その意味で、アブラハム的な孤独のあり様はそのひとつの視座となりうる。アブラハムの孤独――それは「他者」である神のことばを推察する公共的準則を持っていないながら、自らの責任においてそれを解釈する、つまり「絶対的な仕方で」責任を引き受ける、「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」=主体であるからだ。(このあたりはちょっと私の理解が追いつかず、自信はないけれど)
アブラハムの主体性は、理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し、生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。この主体性が、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、何ものも彼の行動を根拠づけてくれないという絶対的な無根拠に耐えたことによって、彼が神と親しんだことによってでなく、神との近接のうちに絶望的な孤独を味わったことによって獲得されたのである。(85)
だが、このことについては、また稿を改めて書きたい。
ふくしま
by shoichi294
| 2015-03-10 02:17
| 文学・現代思想について
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