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平野啓一郎『私とは何か:「個人」から「分人」へ』:「分人」と他者、そして責任について

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 半年以上ぶりの投稿。

 友人のTaku君がブログでこの本を紹介していたので気になって読んでみたところ、最近私が考えていた事柄と意外にリンクする話だったので、「これはよい機会だ、何か書いてみよう」と決意した次第。(こうした決意がないとなかなか更新できません・・・)

 まず面白いなと思ったのが、本書で紹介されている「分人」という概念。それについて簡単に説明すると次のようになる。


individual(=個人)とは、語源からもわかるとおり、「わけることのできないもの」、「それ以上はもう分割できないもの」を指すことばである。だが、このように考えてしまうと、ひとにはあたかも「ひとりの分割できない自分」、つまり「本物の自分」のようなものがあって、そこを起点として自己を考えてしまいがちになる。言い換えるなら、「本物の自分/偽物の自分」という図式によって自己を捉えてしまうのだ。それはまた、唯一無二の「本当の自分」という神話を容易に創りだし、それにがんじがらめにされてしまう危険を孕んでいるとも言える。
また、他者のことを考える場合においても、個人を「それ以上はもう分割できないもの」と捉えることは問題が生じやすい。というのも、そうした考えは、対人関係ごとに見せる他者の複数の顔を、「表の顔/裏の顔」という二項対立によって理解するよう促してしまうからだ。例えば、A君はB君といる時にはバカみたいな話しかしないが、ブログではC君やネット仲間と社会問題についてものすごく熱く語っている。これを「本物/偽物」の対立軸で考えてしまうと、どうしても前者が偽物で後者が本物であるような錯覚を抱かせてしまう。B君がその事実を知ったら、あるいは憤ってしまうかもしれない、「あいつは「本当の」自分を俺には隠していて、もしかしたらいつも俺のことを影で馬鹿にしていたんじゃないか?」、と。

だが、そうだろうか、と平野氏は問う。A君には、B君とのバカみたいな話をするA君もいる一方で、ブログでまじめな話をするA君も矛盾なく同居しているのではないか? どちらもA君自身のもつ個性なのではないか? 
そこで、この対人関係ごとに見せる複数の顔それぞれをわかりやすく認識する道具立てとして、平野氏は「分人」という概念を導入する。例えば、ひとには恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人など複数の「分人」が存在する。平野氏の言葉を借りれば、

「分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会うだけでなく、ネットのみで交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
「一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
「個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。
「私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。
「分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。」(7‐8)

(書き出してみたら、「簡単」にはなりませんでした…すみません)


 著者の平野氏はこの「分人」という概念が現代の諸問題を考える上で非常に有効であることをさまざまな点から論じる。その詳細は煩雑になってしまうため割愛するが(著作を読んでみてください)、「分人主義」の考え方について<優れている点>をまとめるとしたら次の4つの点が挙げられるだろう。


<分人主義の優れている点>
① 自己に対して寛容になれる。自己を肯定できる。
② いじめられたり、仕事でうまくいかないといった、自己のアイデンティティを著しく傷つけられる経験をしている人にとって、救いとなる。
③ ともすると他者を「裏/表」として見てしまうことを是正してくれる
④ 個人化した現代社会において、他者との関係、他者との連帯を、「個人」という概念とは別の角度から理解することを可能にしてくれる。


 ①、②について、例えば平野氏は次のように述べている。

「学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習をしたり、自宅で両親と過ごしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人こそを足場として、生きる道を考えるべきである。」(94)

 これはいじめを受けている人、あるいは受けたことをトラウマとして抱えている人にとって、非常に救いになる考え方だろう。
 私もいじめられた経験があるが、その頃はどうしても「自分=いじめられる人」と考えてしまい、どこへいっても「自分はいじめられているイケてないやつなんだ」という否定的な考えを拭うことができなかった。
特に思春期の若者にとって、自己に対する狭い視野を広げ、より包括的に捉えることはなかなかに難しい。こうした概念を取り入れることより、そうした視野を無理なく自分のものとすることができるのは大きいだろう。


 ③については、先の「分人」の概念を説明した箇所でも述べた通り、この分人という考え方を用いることによって、ひとりの人間には様々な要素があり、それぞれの場面に応じた様々な顔があるのだということを認めやすくなる。自分の知っている部分だけがその人の全人格であるという誤った認識は、人と人との関係を暗く、こじれたものにしてしまいがちだが、分人であることを前提にすればその感覚を(自然と)正してくれるだろう。


 ④に関しては、次のような点がとりわけ重要だ。

「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。」(98)

「分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要とせずに自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きにすれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。」(125)


 こうして見ると、分人主義という考え方は、①、②、③のような自己と他者の人格の捉え方のみならず、④のような自己と他者がどのようにつながっているのか、その関係性を含み込んでいる点に特徴があるように思われる。平野氏は④についてさらに次のような説明も加えている。


「個人は、確かに分けられない。しかし、他者とは明瞭に分けられる。区別される。だからこそ、義務や責任の独立した主体とされている。
「栄光を掴めば、それは、他者とは違うあなたがしたことだ。他者は、それにまったく無関係である。罪を犯せば、それはやはりあなたがしたことで、他の人間は無関係である。金持ちになっても貧乏になっても、すべては他者とは分けられたあなたの問題だ。
「しかし、私たちは、分人化という現象を丁寧に見てきて、この考え方が根本的に間違っていることを知っている。人間は、他者との分人の集合体だ。あなたが何をしようと、その半分は他者のお陰であり、他者のせいだ。
「個人individualは、他者との関係においては、分割可能dividualである。逆説的に聞こえるかもしれないが、それが、論理学より発展した、この単語の意味である。
「そして、分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能individualである。もっと強い言葉で言い換えよう。個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。それは、個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合するのとは逆に、単位を小さくすることによって、きめ細やかな繋がりを発見させる思想である。」(164)


 あるいは、この「分人主義」という考え方に対して、「単に至極当然のことを再度確認しているにすぎないのではないか」という印象を持たれる方もいるかもしれない(実際、著者の平野氏自身も「多くの人が既に知っていること」と認めており、その上で本書執筆の目的を「明瞭には語られてこなかった」ものを議論するための「足場」作りの整備と規定している)。しかし、ある意味では、こうした当然とも思えることが「分人」という新しい概念によって再度語られねばならないほど、現代社会はあまりにも個人化し、個々人が分断されてしまっているとも言えるだろう。自己責任が声高に叫ばれる社会にあって、われわれは確実に他者との「連帯」感を持つことが難しくなっている。その中で、分人主義はある種のわれわれの拠り所になる可能性を秘めているし、少なくとも著者の言うように議論の足場になってくれるものではないだろうか。(以前「バウマンとメディア」という記事をこのブログにも書いたが、このindividualized society(個人化社会)の問題は、われわれが社会の問題を個人の問題にすり替えてしまう暴力を含んでいる。この点はまた日を改めて考えてみたい)。



 さて、ここまで分人主義の良い面に光を当ててきた。だが、最後に、分人主義に関するいくつかの(大きな)疑問点についても簡単に記述しておきたい。私自身、分人主義は面白い論点・視点を提供してくれていると思うのだが、その反面、次の点ではどうも腑に落ちないところがあるのだ。


<分人主義の疑問点>
① 分人という概念の中にも、予めそれを統合した「自己」というものが「個性」として措定されてしまっているのではないか?
② 「愛」の問題にうまく応えることができないのではないか?
③ 個人の「他者への責任」については、考えることができなくなってしまうのではないか?


 ①については、単なる印象でしかないのだが、本書の中で「個性」という語が頻繁に書かれている点が、少し引っかかる。個人を分け、様々な人間との関わりの分だけ「分人」を持つ、というのが「分人主義」の重要な考え方だと思うのだが、「個性」ということばを使うとき、どうもその語はそれら「分人」を統合した<主体>を(予め)想起しているように思われて仕方がないのだ。つまり、結局は「分人」というのは、一個の主体のもつ様々な要素にすぎないと。もちろん、「分人」とは他者との関係性によって自己が成り立っていることをわかりやすく提示するための概念であるから、そのあたりの矛盾は仕方がないのかもしれないが、「個人はさまざまな顔を持ち、われわれは他者を十全には知ることができない」とするだけでは不十分なのだろうかとも思ってしまったりもする。


 ②の疑問は次の箇所を読んだときに生まれたもの。

「愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって相手が自らを愛せるようになることだ」(138)

 「自分が自分のことを愛することができること、相手といて心地よい気持ちになれること」というのは愛の一側面ではあるが、このようにだけ定義してしまうと、「分人主義」における「愛」は、結局非常に「個人的」な愛しか語れなくなってしまうのではないか。分人主義は「個人」ではなく「分人」であることに主眼を置くにもかかわらず、愛が「自己(=個人)を愛することができる」あるいは「自己が心地よくいられる」と言うように個人に還元されてしまう点はどうにも矛盾しているように感じられてしまう。


 最後に③について。
 「分人主義」における「自分があるのは他者のおかげ」という感覚は、確かになんとなく「しっくりくる」、特に日本のムラ社会的、集団主義的土壌で育った者にとっては。しかし、その裏返しとして、③の問題は残されたままなのではないか。
 「分人主義」とはある意味では「お互い様」の文化への回帰である。「私があるのは、半分は他者のおかげ/せいだ」、「他者があるのは、半分は私のおかげ/せいだ」とする「お互い様文化」は、確かに他者との結びつきを強める働きをする。しかし、この「お互い様」の考え方は、個人の責任をあやふやにしてしまうという弊害も含み込んでいるように思われる。つまり、俺がこんな境遇にあるのは半分は他人のせいなんだ、というように、自分の「責任」を他者に転嫁してしまうことを容易にしてしまうのだ。
分人は他者との関係によって我々自身が構成されているということを思い出させてくれる点では大変有意義である。しかし、レヴィナスも述べているように、「責任」とは非対称の関係でなければ成り立たない。俺にも責任があるかもしれないけれど、あいつにも責任はあるんだ。それは責任ではなく、逃げの方便ではなかろうか。「責任=責めを負う」、ということは、たとえ他者にも責任がある状況でさえ、それを述べることなく、責めを自己に引き受けることだと思う。他者がしてくれるからするのではなく、他社が責任をとるから自分も責任をとるのではなく、ただ「他者に対して」行うこと。
 と、まあ、こう書くとあまりに自分に厳しすぎるのかもしれないが、分人主義だけではやはりどこか物足りなく思ってしまう。レヴィナス的倫理観までいかずとも、他者との関わりを「他者への責任」から考える視点はやはり外すことはできないし、むしろそうしたものを含んだ「哲学/倫理」を一般向けに語ることこそ今一番重要なのではないか、そんな風に思う今日この頃である。
by shoichi294 | 2013-03-19 02:27 | 文学・現代思想について | Comments(0)

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