久しぶりの内田樹の単著だったが、やっぱり面白いし上手い。すこし「上手すぎる」とも言えるが(それが内田樹の弱点と言えば弱点。ちょっと「ずるい」なという印象もないわけではない)、その着眼点と論の展開は本当に巧みで、腑に落ちる。
例えばジョナサン・ゴッドシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』の書評において、ポスト・トルゥースの時代の実相をポストモダニズムの変質から語るそのことばは、短い紙幅で的確に事象の核心を射抜き、その手さばきに賞賛を禁じ得ない。
このようにシニカルな態度は「ポストモダニズムの頽落した形態」だと診断する人たちがいる。傾聴に値する知見だと思う。
ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長らくは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑に止まることに疲れて、やがて「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。
彼らはこういうふうに推論した。
「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。人間の知見から独立して存在する客観的実在は存在しない(これは言い過ぎ)。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である(これは誤り)。」
こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。(56-57;強調は引用者による)
自己批判性だけが喪失した相対主義=ポスト・トルゥース時代の真実の実相、とはまさにその通り。ああ、こんな風に説明したらよいのか、と思わず膝を打ってしまう。
これに限らず、本書はやさしい語り口の中に洞察に満ちたことばがちりばめられている。政党名を伏せて政策だけを選ばせると自民党以外を選択する人が多数であるのに、政党名を示すと自民党を選んでしまう国民性を、<選挙に勝つ=正しい>という図式が内面化しており、その中で自らを「正しい選択」の支持者としたい表れだという解釈には「なるほど」と思わずにはいられない。また教育に関しても、独特の批評の「角度」が興味深い。特に子どもたちを条件付けて承認する風潮に異を唱え、○○をすれば認めてやる、というのではなく、ただ「歓待し、承認し、祝福する」ことこそ重要であるという主張には、心から同意する(これを実践するのは容易ではないが…)。また、現代に足りないのは「勇気」であり、これは「友情・努力・勝利」という『週刊少年ジャンプ』の文化によって退潮してしまったというのも鋭い指摘。
今回久しぶりに内田の著書を読んでみて強く感じたことは、その「地に足がついた」ような批評の在り方である。現実に起こった出来事から自身が感じ取ったことに丁寧に向き合う姿勢、事象が孕む齟齬や矛盾点を落ち着いた視線で解きほぐしていく透徹した眼差しは、この人ならではだと感じる。自らが対象へ感じた直感的なものを大切にし、「リアル」なものを観念によって捨象しない姿勢は私自身が学ばなければいけないし、そのためには揺るがない土台が必要なのだろう。一時期、どの本でも同じようなことを述べていると感じて、もういいかな?と離れてしまっていたが、やっぱり定期的に読むようにしよう、と思わせる一冊だった。