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文学の授業にて、授業後回収しているシートの中に、次のような質問があった。

『コンビニ人間』が後半に進むにつれ何ともいえない嫌悪感を持ったが、先生は『コンビニ人間』をどう思うか?

恥ずかしながら、私はその時点で『コンビニ人間』を読んでいなかった。

理由がないわけではない。芥川賞受賞の宣伝文句――コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる――に、どうにも興が乗らなかったからだ。規範的な生き方へ疑問を投げかけ、その規範性がいかにチープであるかを暴くような小説――そんな最近よくある物語なのではないかと感じてしまったのだ。

でも、せっかく学生が質問してくれたのだからと、読んでみることにした。

ところが、読了後すぐはすらすら感想が書けると思い、授業内で「ブログにて応答します」と宣言してみたものの、いざ書き出してみると予想外に難しく、まさかこんなに時間がかかってしまうとは思わなかった(昨日このページを訪れてくれた学生さん、本当に申し訳ない)。現在のところ、この小説の評価は私自身の中で錯綜しており、評価4割、疑問6割といったところだ。

だが、それを詳しく語る前に、まず物語の主な登場人物を簡単に振り返ってみよう。

主要登場人物は主に二人。

まず、主人公である古倉恵子。現代における規範から多くの面で外れている36歳未婚女性である。恵子は大学卒業後「定まった」職に就くこともなく、コンビニ店員としてアルバイトをしており、そのバイト歴は18年にもなる。これまで男性と付き合った経験はない。子供の頃、死んでいる鳥を見た際、「かわいそう」と感じず、むしろお父さんの好きな焼鳥の材料になると主張したことで周囲を凍り付かせてしまうなど、周囲からは異質な存在として敬して遠ざけられている。恵子自身、世間と「ずれている」と感じているが、どこが「ずれている」のかはよくわからない。それゆえ、これまで波風を立てぬよう、他人を模倣し、できる限り世間と歩調を合わせる生き方を模索してきた。しかし、その仮面をかぶる試みは実際のところほとんどすべてうまくいかない。唯一コンビニで働くことだけが自分にぴったりとした居場所を提供してくれて、その仕事にやりがいを見出すことができるものだった。

もう一人の重要な登場人物は、物語中盤に現れる白羽という男である。彼もまた定職についていないが、恵子とは違ってむしろ自分を養ってくれるような女性を見つけたいと考えている。規範性を押し付けてくる現代社会には怒りを感じており、現代を「個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にムラから追放されるんだ」と批判する。ただし、同様に規範性から外れている恵子に対しては、「バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い」と、自身が批判する規範的価値観を振りかざして無自覚に彼女を罵倒とする。

そんな二人が同棲を始める、というのが学生が問題としていた物語後半部分である。ルームシェア先を追い出されかけていた白羽を家に泊めてあげた際、恵子は「いい年」した男女は一人で暮らすよりも共に住んだ方が世間から批判されないという「合理的」判断にたどり着く。この利害の一致によって同棲するという点で、『コンビニ人間』は昨年話題となったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』 と似た構造を持っている。ただし、『コンビニ人間』では、社会にある同調圧力のバカバカしさが徹底的に批判されており、二人の世間からの逸脱ぶりは『逃げ恥』の比ではないけれど……

正確なところはわからないけれども、そうした恵子や白羽の規範からの逸脱が極めて強いことが学生の嫌悪感の源になっているのは大いにあるだろう。例えば次のような恵子のセリフはその典型である。

あのね、うちって古いアパートでしょ。白羽さん、古いお風呂に入るくらいならコインシャワーのほうがいいんだって。シャワー代と餌代の小銭をもらってるの。ちょっと面倒だけれど、でも、あれを家の中にいれておくと便利なの。皆、なんだかすごく喜んでくれて、『良かった』『おめでとう』って祝福してくれるんだ。勝手に納得して、あんまり干渉してこなくなるの。だから便利なの(『コンビニ人間』121)

これは白羽を妹に紹介する際の恵子のことばだが、恵子にとっては極めて合理的な判断が、妹にとっては常軌を逸したものにしか感じられない。こうした言葉が、物語後半恵子からは何度も繰り返される。恵子のことばに違和感や嫌悪感を覚えてしまうのはある意味当然と言える。

ただし、この小説で忘れてはならないのは、恵子のこうした状況は周囲の人間たちによる規範的物語の押し付けによってもたらされたということだ。周囲の同調圧力、同じ規範を共有すべしとする圧力にさらされ続けた結果として、恵子はそこから脱出するための術を考えなければならなかった。

だから、もしこのような恵子の言動に嫌悪感を覚えたならば、私たちはやっぱり立ち止まって考えてみる必要がある。それが無意識に抱いている規範から来たものではないのか、あるいは白羽と同様、批判している規範的価値観によって人を批判してはいないのか、と。周囲の規範とは、読者である私たち自身の規範であり、恵子の言動にイライラするのは、自分も他の登場人物と同様その規範を無意識に押し付けているからかもしれないから。

このように自分を省みる小説として、この物語は意義深いと思う。「気持ちよく」はしてくれないけれど、いつもの「気持ちよい」小説がいかに規範的な物語に準拠しているかについても教えてくれる。

とはいえ、引っかかるところもある。それが6割りの疑問の部分だ。

私がそう感じるのは、恵子の冷めたように見える人間との関わり方が、むしろ現代に次第に広がりつつある<利害>、<リスク>、<経済的合理性>を基準とした新たな規範的人間観に立脚しているように思われるからだ。作者がこの点についてどのような立場なのか、この著書を読む限りでははっきりとはわからないけれども、すべてを経済的合理性に基づいてクリアカットに判断しようとする恵子の姿勢には、人間は動物にすぎず、自分の利害、リスクによってしか動かない、とする現在新たに生まれつつある規範的傾向に通底するものがあるように見えてしまう。もしも学生がこの点を取り上げて嫌悪感を抱いたのなら、その感情は私とつながるものだ。

もちろん、冒頭に挙げられている恵子の子供の頃のエピソード(死んだ鳥を「せっかく死んでいるのだから食べたらよい」と考えたり、喧嘩している男子を「とめて」と言われれば、その最善の方法はスコップを振り上げて殴ることであると判断・実行したりする)から判断すれば、恵子は先天的に文脈を読み取る能力が欠けており、ことばを辞書的な意味でしかとることができないのかもしれない。

あるいは、物語の焦点はそうした人間が世間の強烈な同調圧力に押しつぶされず、いかに自分らしくあるにはどうするかという点にあるのだから、そうしたことを問題にするのは野暮なのかもしれない。

けれども、世の中に溢れている規範的物語に対置される物語が、すべてを無機質に経済的合理性のみによって判断する生き方の肯定というのでは、なんだか悲しすぎるではないか。現代はもはやそうした物語しか生み出せないのか。そう自問せずにはいられない。

個人が持つ価値観の多様性は保証されるべきだし、無意識的な同調圧力の存在、いわゆる空気の存在に対しては、その力に屈しない社会を築かなければいけない。しかし、同時に今必要なのは、他者との関係を単に利害や干渉とのみ捉えるのではなく、ことばにおいてその隔絶を乗り越えようとすることではないか。孤立化してしまった他者と他者のあいだをつなぐことば(=物語)を構築することが今文学に最も求められている役割なのではないか?

恵子は「世の中の歯車」の一つになることを望み、「世界の部品」になることを望む。恵子にとってそれを叶えてくれる場所こそがコンビニである。他者に自分の物語を押し付けず、完璧な状態のコンビニをお客様に提供するということが無上の喜びという恵子は、きわめて真面目で、倫理的だ。だが、その一方で、恵子が他者と関わる理想的なあり方とはどんなものだろう? 他者との関係とは結局仮面をとっかえひっかえすることだとうそぶいてしまう人が多い現代にあって、恵子の倫理観が逆にそれを下支えしてしまうのではないかということを危惧している。


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先日(といってももう半月以上前のことだけれど…)、ある同僚から以前書いた書評についてことばをかけてもらった。

それは教職員向けの会報に毎月掲載される「私の一冊」というリレー式の小さなコラムで、ほとんど誰も気にかけていないようなものだった。

だから、「読みましたよ」という予想外のことばがすごく嬉しく、またずいぶん励まされる気持ちになったのを覚えている。

取るに足らないコラムではあるけれど、それなりに真面目に、伝えたいと思うことを書いたつもりだったので、その思いを汲んでくれる同僚の存在がとても有り難く、また頼もしく思えたからだ。

そして今、ある学生を研究室で待ちながら、ふとその小さな書評のことを思い出し、ブログに挙げてみたい気になった。

なぜそんな気になったのか、自分でもいまいちよくわからない。

雪の降る中、その学生との面談があるからと大学に来てみたけれど、学生は一向に姿を現さず、ぽっかりと空いてしまった時間を持て余してしまったからかもしれない。

あるいは、重松清の小説にベケットの『ゴドーを待ちながら』をもじった「後藤を待ちながら」という短編があり、その連想がいくつもの連想を呼んだ結果なのかもしれない。

うーん……前置きが長い! とりあえず書評、挙げます。
読んで頂き、重松清の『十字架』を手に取ろうという気になってもらえれば(「後藤を待ちながら」でもOKですけれど)、これ以上の喜びはありません。

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重松清『十字架』(講談社文庫)

近年、「ポジティブであることの大切さ」が喧しく叫ばれています。悲劇的な描写を含む物語は「悲しくなるから」という理由で嫌われ、前向きであり、「スカッ」とストレスを発散させてくれるような物語が好まれる傾向にあるようです。もちろん、ポジティブであることは大切ですし、一歩前に踏み出すことの重要性は言うまでもありません。ただ、もしそれが見たくないものから目を背けるための方便として、あるいは悲劇的な事実を考えることを避けるための言い訳として使われているならば、どうでしょう。紹介する重松清の『十字架』は、そんなことを改めて考えさせてくれる本です。

物語は、中学時代のクラスメイトの自殺について、主人公である真田ゆうが過去を追想するという形式で語られます。20年前、裕のクラスメイトである藤井俊介はいじめに悩み、自死を選びました。その際、遺書に「真田裕様。親友になってくれてありがとう」ということばを残します。ところが、実は裕と俊介は中学に入ってから疎遠であり、しかも俊介がいじめられていたとき裕はただ黙って見ている側に立っていたのです。裕はなぜ親友と呼ばれたのかわからず、またそのことばの重みに苦しみます。しかし、他のクラスメイトのように、直接いじめに関わっていないことを言い訳に事件から逃げることはできず、残された遺族との関係の在り様を模索しながら、長い年月をかけその出来事の「十字架」を引き受けようと努力します。

重松清らしい簡潔な文体は、読み手の心に直に届き、本当に一歩を踏み出すとはどういうことかを私たちに問いかけます。是非読んで頂きたい一冊です。


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昨日トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。

専門家も含め、ほとんど誰もが大統領選挙に勝つとは思っていなかった。

しかし、英国のEU離脱のときと同様、「そこまでは起こらないだろう」ということが現実に起る結果となった。

実は先週11/4にブログを久しぶりに更新しようと思い、次のようなことを書き出していた。

<アメリカ大統領選挙に思うこと>

来週の投票を控え、またトランプ氏が盛り返しているという。

世論調査によれば、二週間ほど前には78ポイントほどあった差が、現在ではほとんどなくなっているとのこと。

以前どこかのテレビ局の街頭インタビューで、一人のアメリカ人(その人は白人男性であったが、バックグラウンドまではわからない)が語っていたことが印象的だ。

彼の趣旨は、トランプのダメさ加減はわかっている、けれども、それでも一度彼にやらせてみてもよいのでは、というものだった。

変化への渇望。

そこには既存の体制への失望と嫌悪がある。


もちろん、この時点で、まさかトランプが実際に勝利してしまうとは考えていなかった。その意味で私は、アメリカの特に白人低所得者層に渦巻く不満、不安、憎悪を全く見誤っていたと言える。だが、トランプの掲げる政策(?)によっては何も変わらないと考えるひとが、つまり本質的な問題はそこにはないと考えるひとがもっと多いだろうと考えていた。


一夜が明け、今後起こるであろうことも含め、今世界で何が起こっているのかを読むことができないでいる。自らの勉強不足を恥じるばかりであるが、リーマンショックという経済恐慌を経て
8年、保護主義へと走る姿勢はどこか第二次世界大戦前夜に似ているようにも映る。

グローバリズムによる国境破壊の終焉とみる向きもあるが、果たしてそれはグローバリズムによってもたらされた絶望的なほどの格差拡大を解決することにつながるのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。

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年初には今年こそ定期的な更新をと思いながら、またもその決意を反故にしかけている自分が情けない。だが、今月から雑感という形で、月に一度は何か書いていきたい。(と考えたのが6月下旬。そこからグズグズしている間に月を跨いでしまい、7月となってしまいました。。。ですが、タイトルは「7月雑感」とはしないでおきます。)


まずジョコビッチについて。


このブログの実質的最初の記事であるテニスのジョコビッチが生涯グランドスラム(=キャリア中に4つのメジャー大会を優勝すること)を達成した。もう時機を逸してしまったし、次のグランドスラムであるウィンブルドンも始まっており、何よりジョコビッチが負けそうになっている現在(*昨夜、サム・クエリーに2セットを先取されたところで日没順延となり、かろうじて残っている状態)、イマサラ感は否めないのだけれど、記念的・備忘録的な意味で、一ファンとして何か記事を書いておきたいなと思う。


2008年に私自身が12年ぶりにテニスを再開したとき、私とグリップの握りが似ているからというただそれだけの理由から、その年の全豪オープンを優勝したジョコビッチに注目するようになった。しかし、ジョコビッチはその最初のグランドスラムを取って以降三年間、一度もグランドスラムを取ることはできなかった。フェデラーとナダルの影でもがき続け、常に二人の後塵を拝し、さらにはデルポトロら下の世代にも迫られる、そんな時期が続いた。


フォアハンドもバックハンドも穴がなく、ベースライン際では無類の強さを発揮するのに、せっかく追い詰めたところでスマッシュミス。相手選手がロブをあげるたびにはらはらした。平常心ではほとんどミスをせず精密機械と言われているのに、大事なポイントでビビってしまい、守りに入る。むなしくネットにかかるドロップショットミスを何度見たかしれない。当時WOWOW解説者だった柳さんからは「なんで[ふつうに]打たないんですかねー」と言われてしまう始末。だから、いずれナンバー1になることはあっても、グランドスラムを数度優勝することはあっても、まさかグランドスラムを12回も優勝し、生涯グランドスラムまで達成するような選手になるとは想像もしていなかった。


もちろん、当時もランキングナンバー3の選手であり、トッププロ中のトッププロだったのだから、強いのは当たり前だ。しかし、ジョコビッチには強さとともに弱さが同居していた。それは技術的な面でも、精神的な面でも。素人の私がこんなことを言うのも本当におこがましいのだが、試合中の精神的な起伏の激しさは、当時のジョコビッチの試合を見たものであればどんな人でもすぐに気づいたはずだ。


しかし、ある意味で、そうした危うさがジョコビッチの独特の魅力となっていた。飽きることなく応援を続けることができたのも、そのことが大きかったのかもしれない。例えば、2010年の全米オープン準決勝。全米では一度も勝ったことのないフェデラーに、弱気なショットからダブルのマッチポイントを握られたときのジョコビッチは忘れられない。またフェデラーに勝てないのか。誰もがそう思ったそのときそれまでの弱気を払しょくし、クロスにフォアハンドのリターンエースを決めてみせた。その攻めの姿勢により最終的にジョコビッチは初めて全米でフェデラーより勝利をもぎ取るのだが、そこにはそれまで3年間のドラマが凝縮されているような瞬間であったと思う。


この2年ほどのジョコビッチは本当に当時とは別次元のようなテニスを展開している。そこには観るものの想像を超える恐ろしいまでの努力があったのだろうと思う。有名なグルテン・フリーによる食事制限はもちろんのこと、毎年毎大会、自分に足りない技術を習得して大会に臨み、かつて苦手であったはずのスマッシュやボレーは改善され、特にドロップショットなどは今やジョコビッチの武器のひとつとすらなっている。フォアハンドのアングルショット、バックハンドのダウンザラインの精度も以前とは比べ物にならず、(時々ラケットをバキバキにする悪癖はあるにせよ)メンタルの起伏も驚くほどになくなった。


それでも、生涯グランドスラムのかかった全仏は特別な舞台であった。昨年は本当に完璧なテニスでナダルに勝利したにもかかわらず、決勝ではワウリンカに敗れてしまった。肉体的な疲労もあったろうが、やはり勝ちたいと思ったときの精神的なコントロールが難しかったのだろうと思う。そして表彰式で流した涙。その涙が今年報われたということは、本当に本当にうれしい(その陰でグランドスラム決勝10回目にして8敗目を喫したマレーの悔しさに満ちた表情も忘れられないけれど。本当にいろいろなドラマがあるなぁ)。


生涯グランドスラムも達成により、ジョコビッチはウィンブルドンでは早々に負けてしまうかもしれない。ファンとしても、ちょっとほっとしてしまっているところがあって、もちろん年間グランドスラムやゴールデンスラムを達成してほしいのだけれど、なんだかそれは欲張りすぎるかなとも思ってしまう。このあたりでフェデラーの復活や、錦織のグランドスラム初優勝(それはなんだか全米で達成されそうな気がするし、その方がドラマ性もあってよいかなとも思ったり)も見てみたい気もするが、さてどうなるだろう。

 
 長くなってしまったので、ひとまずここまで。

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一昨日、年初に企画した今野晴貴氏の特別講演「ブラックバイト問題の背景と対処術」を無事終えることができた。このブログで事前告知をしようと思ったのだけれど、閑散としたこのブログでは効果もないし、何より今回は大学内の学生・教職員向けとして企画したため、やらないほうが良いかなと思い直し、やめにした。(でも、事後告知なら良いかな、ということで今書いている次第。。。)


今野晴貴氏は言わずと知れた「ブラック企業」という言葉を世に広めた著名人であり、そうした方が縁もゆかりもない私のような一大学人の講演依頼を即快諾してくださるなんて、まさに夢のようであった。


また、満足な講演料もお渡しできない中、学生や教員を啓発したいという使命感から、A4レジュメ9枚にわたる熱のこもった講演をしていただいたことに、本当にありがたい気持ちでいっぱいである。この場を借りて改めて感謝申しあげたい。


実際に現場で日々問題と向き合っている今野氏の言葉はとても重く、また氏が実際に携わった事例から見えてくるブラックバイト問題の根深さに、学生たちの目の色は講演中どんどん変わっていったのが印象的だった。


普段なかなか自分から質問しようとしない学生が多い電大において、質疑応答で積極的に挙手する学生の姿は忘れられない。


150名以上の参加者それぞれが、自分なりに問題意識を形成し、困難な状況に直面した時の考える礎となってくれれば、企画者としては望外の喜びである。


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夏休みにひとつぐらいは投稿を、と思いつつ、激変する日本の政治状況への理解を深めようと乱読していたら、もう夏休みが終わってしまった。

日本についてはまた別の機会にじっくりと書こうと思うが、ふと海の向こうのアメリカに目を転じてみれば、共和党の予備選挙がずいぶんなことになっている。もちろんトランプ氏の問題もあるのだが、CNNの次の一節を読み、何だか今の日本を包む雰囲気と通底するものを感じ暗澹としてしまった。

The top three contenders underscore a key theme in the 2016 race: In a jampacked GOP presidential field, the leading candidates are the only ones who have never held political office.

http://edition.cnn.com/2015/09/20/politics/carly-fiorina-donald-trump-republican-2016-poll/index.html?iid=ob_article_organicsidebar_expansion&iref=obnetwork


記事はトランプ氏が支持を落とす代わりにフィオリーナ氏が支持を大きく伸ばし二番手に躍り出たというもの。現段階における支持は今後大きく変動する可能性があり、それほど重要視する必要はないのかもしれない。しかし、引用した記事の中で、上記二氏に加え三番手に付けるカールソン氏まで、三人とも政治経験がないという点には少々驚いた。CNNがそれをa key theme(鍵となるテーマ)と述べているのはさすがだが、乱立する候補者の中でそうした人物が出てくる背景には、現行の政治状況へのいかんともし難い憤懣と閉塞感が渦巻いているのだろう。


何より危惧されるのは、こうした状況でアメリカがより「反知性主義」の方向へ進みかねないことである。「無教養主義」という意味での「反知性主義」の広がりはアメリカで(そして日本でも)現在顕著に見られる傾向である。「反知性主義」の最も恐ろしいところは、今を生きる自分の感覚にのみ依拠することにより、歴史を省みる視点、そして自己を省みる視点が欠けていくことにある。自分の感覚の絶対化(=自分が感覚的におかしいと思うことは、きっと間違っているに違いないと思い込むこと)は、やがて自分を相対化する目を失い、自分と同じ意見のものしか目を向けることがなくなっていく。その先にあるのは、果たして……


とはいえ、この夏の勉強では、それをどのように克服していけばよいのか、そのヴィジョンは見出せていない。こうした状況と闘うための「ことば」、あるいは理論的な構築は必須であるが、それはどのようなものなのか。あるいはそうした理論的構築だけでよいのか。混迷の時代にその方向性を見出すことは急務である。


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1年半ぶりの投稿。

正直このブログをどうしたものかと思っていたが、やはりこういう発信媒体も必要だと年初に思い直し再開を決意。しかし、先月の26日から今月1日までニューヨークで開催されていた第四回国際ポー学会での口頭発表の準備に忙殺され、結局こんなに記事を書くのが遅くなってしまった(このブログを奇特にもこれまで読んでくださったことのある方なら、毎度のこととご理解していただけることと思います)。

とはいえ、年初にすでにいくつか記事のアイディアはあり、そのひとつが今回取り上げた、内田樹氏の著作『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)についてである(以下敬称略)。

内田樹の著作はこれまでにもそれ相応の数を読んできたが、この著作はこれまで読んだどの著作よりも素晴らしいものだと思う。『ためらいの倫理学』も『他者と死者』も『街場の教育論』も好きだけれど、これはそれらを超えるものではないか。それは彼のレヴィナスへの「愛」の深さゆえだろうか。

この著書は次の3つの章から成り立つ。

1章 他者と主体
2章 非‐観想的現象学
3章 愛の現象学

前半の2つの章で特に目を引くのは、レヴィナスの「他者」についての深い洞察である。レヴィナスの著作を横断的に引用しながら、レヴィナスが示そうとする「他者」の難解さがどこにあるのか、内田はその要諦を見事に解きほぐす。後半の「愛の現象学」においては、父権性的女性論として非難されることの多いレヴィナスの「住まい」と「女性的なもの」を巡る考察について、なぜあえてレヴィナスは誤解を受けるような用語を使って論を構築したのかという独自の疑問から、レヴィナスのことばの裏側に潜む思想性を掘り起こす。

と書き出してみたが、やはりそれぞれの章が非常に凝縮した中身の濃い論であるため、なかなか一度ではまとめきれなさそうである(まとめられるかさえわからないけれど……)。よって、今後数回に分けて記事を書くことにして、今回はまず第一章で特に興味深いと思われる、レヴィナスの他者論と二つの「私」のあり様についてちょいと考えてみたい。

レヴィナスの他者の難解さ――内田によれば、その理由の一つは、それが「難解な概念」であるというよりは、むしろ「他者」が「そのつど「私」と同時に新たに生起する」(70)からである。「私」と「他者」は「あらかじめ独立した二項として、自存的に対峙しているのではなく、出来事として同時に生成する」(70)。つまり、「私」のあり様によって「他者」のあり様も変わってくるということなのだ。

内田の整理によれば、私のあり様には二つの様態があるという。

①「全体性を志向する私」⇒術語的には「自己」(Soi)/オデュッセウス的
②「無限を志向する私」⇒主体/アブラハム的

しかしながら、①のような私のあり様では、「他なるもの」は自分とは絶対的に異なる「他者」として現れることはない。それは常に自己によって征服され、所有され、統合されてしまうからだ。以下、長いが内田の説明を引用する。

 オデュッセウスの冒険は、「未知なもの」を絶えず「既知」に還元することをその本義とする。彼が異郷を彷徨うのは、より包括的な全体性を構築するため、彼の「世界カタログ」をより精密で豊かなものにするためである。
 オデュッセウス的「自己」にとって「他なるもの」(l’autre)とは、「自己ならざるもの」一般のことである。それらは経験され、征服され、所有されるためにのみ存在する。「他なるもの」はたしかに一時的には「非-自己」、つまり自己とは異他的なものとして認知されはするのだが、それは「同一者」(le Même)の帝国のうちに最終的に統合されるためにである。「未知の大陸」の未知性が高ければ高いほど、それを既知に回収したいと望む帝国主義的開拓者の冒険心は高揚する。自己にとっての「非‐自己」自己にとっての非-自己の異他性とは、そのようにして同化・吸収の欲望を亢進させるものに他ならない。(71‐72)
 全体性を志向する「自己」には「外部」がない。というより、「自己」は構造的に「外部」を持つことができないのである。なぜなら、全体性志向とは「理解を超えるもの」を命名し、「おのれの容量を超えるもの」を適正なサイズに切り縮める、脈絡なく散乱したものを一つの「物語」のうちに取りまとめる、人間に授けられた法外な知的能力の別名だからである。
 だから、理解を超えるものや、巨怪なものは、「自己」にとって、いささかも忌避すべきものではない。「自己」は絶えず「未知のもの」を新たな征服対象として探し求める。「他なるもの」が自己に摂取され、自己を富裕化し、自己を豊かに養ってくれるからである。この「他なるものの『同一者』への変質」(TI, p.113)こそが「自己」の本質なのである。(72)

本書で内田は直接的に述べてはいるわけではないが、この<帝国主義的「自己」>、「流動的で、冒険的で、英雄的な」自己は現在のグローバリズム社会の問題と通底し、そこでの自己のもつ暴力性を暴きだしているといえるだろう。これに対し、アブラハム的主体は、「他なるもの」を同化・吸収し、享受することがない。それはアブラハム的主体が「他なるもの」のうちに自らが認識や理解を超え出るものを、つまりその「予見不能性」(imprèvisibilité)を認め、自己の無力さ、つまり私が「認識することも知覚することもできない」という無能の覚知に至るからである。そしてまさにその時にこそ、「他者」は顕現する。

これに対して、アブラハム的な「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」(l’absolument autre)すなわち「他者」(Autrui)である。「他なるもの」と「他者」は言葉は似ているが、峻別されなければならない。(76)
私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。「他者」は私の全能性の翳りのうちに住まうのである。(78)

さらに、内田はアブラハム的主体とオデュッセウス的自己の孤独の深い隔たりにも言及する。内田は言う、「オデュッセウス的主体は、結局「他者」との対面状況から撤退してしまうからである」と。
オデュッセウス的自己は、「他なるもの」を経験しつつ、「私はいま……を経験している」というふうに、「経験しつつあるおのれ」を冷静に記述している「まなざし」に自己同定する。出来事の渦中にありながら、それを局外から記述する視点にシームレスに移行することができるその「後退」の能力、それがオデュッセウス的主体の生命線である。まるで一枚のガラスが世界と私とを隔てているように、「他者」の「他者性」は私から隔絶されている。それがオデュッセウス的主体の孤独の様態である。オデュッセウス的主体は出来事を経験しつつ、実は、それに「かかわりを持たない」(non-engagement)のである。「すべてが与えられているのだが、そのすべてがよそよそしい」(EE, p.144)のである。(81)

ここで示唆的なのは、オデュッセウスが持つ「まなざし」である。アイデンティティ探求の物語であり、また謎を解くという意味では探偵小説の原型でもあるオデュッセウスの物語が、孤独の「まなざし」の中に「他なるもの」を享受してしまっていることの持つ意味は非常に大きい。というのも、モダンが「他なるもの」を囲い込み、享受してきたことについて、われわれはこれまで大いに批判し、また反省してきたにもかかわらず、実のところ現在においても、われわれはその「他なるもの」を囲い込む「まなざし」に大きく捉われており、オデュッセウス的自己から逃れられていないからである。謎解き、アイデンティティ、あるいはファンタジーを巡る物語がその大半を占める現状は、その動かし難い証左ではないだろうか。そうしたポストモダン状況にあって、いかにこのオデュッセウス的自己のあり方とは別のあり方ができるか、というのはきわめて重要な視点である。

その意味で、アブラハム的な孤独のあり様はそのひとつの視座となりうる。アブラハムの孤独――それは「他者」である神のことばを推察する公共的準則を持っていないながら、自らの責任においてそれを解釈する、つまり「絶対的な仕方で」責任を引き受ける、「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」=主体であるからだ。(このあたりはちょっと私の理解が追いつかず、自信はないけれど)

アブラハムの主体性は、理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し、生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。この主体性が、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、何ものも彼の行動を根拠づけてくれないという絶対的な無根拠に耐えたことによって、彼が神と親しんだことによってでなく、神との近接のうちに絶望的な孤独を味わったことによって獲得されたのである。(85)

この後第二章において、内田はこのテーマを別のかたち、すなわちフッサールとレヴィナスの分岐点がどこに存在するかという視点から、解き明かそうと試みる。フッサールもレヴィナスもどちらもが「他者」を問題にしながら、なぜ二人の「他者」は最終的にまったく別種のものとなるのかという問いに対し、内田はレヴィナスの論考を丁寧に辿りながら上記の「まなざし」の問題をわかりやすく、かつ示唆に富むかたちで語っている。

だが、このことについては、また稿を改めて書きたい。


ふくしま
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また半年振りの投稿。
(まじめなものになると、どうもこれが私の精一杯のペースのようです…)

先週末、最後の授業が終わってほっとしているところで、ヤフーニュースに次のような記事を見つけた。

「つながっていても孤独」という不思議
ソーシャル化する社会が世界を大きく変え始めた~第42回
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20131010-00038870-biz_jbp_j-nb

この記事が伝えるところをかいつまんで言えば、次の3点。

①ソーシャルメディアがもたらす「つながり」の薄さ。
②孤独を避けるため「つながっている」という状態にどっぷりと漬かりすぎ、逆に「つながっていない」時に余計孤独を感じてしまうという皮肉。
③あるいは、孤独であることがあたかも罪悪であるように見えてきてしまうという意識の変化。

ということで、論点としてはありきたりで、別段面白い視点を提供してくれるわけでもない。

しかし逆に、そうしたありきたりであることが、現代のわたしたちが否応なくとらわれてしまっているある認識の危険さを物語っているようで興味深い。

それは、「つながる」ということばへの無条件の信頼であり、そのことばが含みこんでいる「自己中心的な<身振り(=態度)>」への無関心さである。

以下、この「つながる」のもつ意味合いについて、少し考えてみたい。

「つながる」が表象する自己と他者の関係
 「つながる」ということば、それは一見<能動的な行為>を表しているように感じられる。「○○につながる」という発話は、話者の<意志>によって、○○という状況にコミットしていくように感知されうる。しかし、そのことばが本来意味するところは、「離れているものが結ばれて、ひと続きになる」(『大辞泉』)という状態であり、意志ではない。

 つまり、「つながる」とは二点を結んだ線的な関係を表すことばでしかなく、そこには「つなげる」のような「困難を乗り越え二つのものを接合する」という力強さは存在しないのである。それゆえ「つながる」は、既存のネットワークに自分も「つながる」くらいの能動的な意味しか有していない。それは、お手軽で、極めて消極的な行為を表すことばなのである。

 ソーシャルメディアにおいて「つながる」ことを欲してやまない人たちに共通すること――それは、その想いが常に<自分>を中心に回っていることだろう。自分が孤独から逃れるため、自分が考えていることに共感してほしいため、あるいは自分が人から好かれていることを再確認するため。つながる理由はさまざまであるが、その動機は他者や外界のものに触発された関心であるというよりはむしろ、自分を認めてほしいという承認欲求であり、自己中心的なものに他ならない。言い換えるならば、それは他者自身に対してむけられた関心ではなく、他者が自分とともにいてくれることへの関心である。ゆえに、極論すれば他者は誰でもかまわない。自分のことを「わかって」くれさえすれば、どんな人でもかまわないのである。

 ジークムント・バウマンは、『ポストモダン・エシックス』において、人間の倫理的関係とは、他者と共にある関係(being with the Other)ではなく、他者へと向かう関係(being for the Other)であると指摘した。しかし、「つながり」を求めるものにとって、他者は自分とともにあり、自分を「わかってくれる」存在以上のものではない。だから、他者が自分とは異質な存在であり、そのことによって自分が不快に感じたり、嫌な思いをしたりすれば、その「つながり」を絶ち切ることへのためらいは極めて薄い。「つながる」とは、自分が正しいこと、自分が慰められること、自分が独りではないことを証明してくれる人との「つながり」なのであり、そうではない人はそのネットワークから排除される。「つながり」を求めるものにとって、他者とは常に代替可能な存在なのである。
 
 しかし、その代替可能性こそが皮肉なことに「つながり」を求めるものにとって言い知れない不安を呼び起こす。というのも、自分が他者を代替可能とみなしているということは、すなわち他者も自分のことを代替可能とみなしている可能性が高いということを示唆するからだ。この自己の代替可能性への転落はアイデンティティを著しく傷つける。彼らは常に自分が「切られるかもしれない」という潜在的な不安に怯えなければならないし、それ故より一層自己の殻へと閉じこもらざるをえない。「つながる」ことを欲するものたち――彼らは、自己を保護するために他者をモノ化することで、逆に自分がモノ化されてしまう悪循環に知らず陥ってしまっている。
 
 こうした意味で、「つながる」は一時期大いにはやった「癒される」ということばとその問題を一にしている。
「癒される」ということばは、例えば「あー、癒されたい」とか「癒してくれる人がほしい」、あるいは「癒しの○○」というように使用され、主にストレスを極度に抱えた現代人の心の叫びのように繰り返しメディアを賑わした。だが、「あー、癒したい」とか「癒してあげる人がほしい」といったような使用例はほとんど聞かなかったし、今でも聞かない(まあ、それはなんだか別の意味でちょっとコワいような気もするけれど・・・)。

 この事例はやや陳腐にすぎるかもしれないが、そのばかばかしさとは裏腹に、二つの重要な論点を隠し持っている。ひとつは、「つながる」の場合と同様に、ここでもそのコミュニケーションが極めて<自己中心的な想い>によって占拠されているということ。もうひとつは、そうした「自己中心的」であることが、別段批判の対象にはならないということ。特に後者は、その裏に「人間というものは結局利己的で自己中心的なものである」というシニカルな認識が透けて見えてくるため、より一層深刻である。というのも、そうした認識は自己中心的であることに妥当性を与え、そうした自己中心的な態度を正当化してしまうからである。

 もちろん、人間が生物である以上、程度の差こそあれ誰もが自己中心的な側面を持ち合わせている。だから、「癒されたい」と思う気持ちを持つことが悪いわけではないし、そうしたことばが自然に口をついて出てくる場面もしばしばあるだろう(私もそうだ)。ただ、一方で受動的な身振りであることへの自己批判的態度を失ってしまえば、どうなるだろうか? 「癒されたい」という<自己中心的な想い>への後ろめたさを、あるいは「癒される」ことよりも「癒す」ことへと意識を向けようとする意志の力を、もし偽善として非難し無力化してしまうならば、後にはただ冷笑的な人間観に基づいた寒々しい人間関係しか残らないだろう。そこでは、他者は<自己を幸せにしてくれる>という基準でしか意味を与えられず、モノ化した存在へと還元されてしまう。そして皮肉にも、「つながり」を求めるものはそうした他者との断絶の中で<真のつながり>を求めて苦悶する。

 こうした<身振り>は、現在、ソーシャルメディアに限らずあらゆるコミュニケーションにおいて見られるものである。それがソーシャルメディアにおいてより顕在化して見えるのは、ただそこでの関係が実生活ほどに断ち切ることが難しくないという、それだけの理由に過ぎない。「つながる」が示唆する問題は今わたしたちが直面するコミュニケーションの根幹に潜む問題である。そのことをしっかりと認識することが、翻ってSNS中毒者の問題を考えることにもつながるのではないだろうか。
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