先日(といってももう半月以上前のことだけれど…)、ある同僚から以前書いた書評についてことばをかけてもらった。

それは教職員向けの会報に毎月掲載される「私の一冊」というリレー式の小さなコラムで、ほとんど誰も気にかけていないようなものだった。

だから、「読みましたよ」という予想外のことばがすごく嬉しく、またずいぶん励まされる気持ちになったのを覚えている。

取るに足らないコラムではあるけれど、それなりに真面目に、伝えたいと思うことを書いたつもりだったので、その思いを汲んでくれる同僚の存在がとても有り難く、また頼もしく思えたからだ。

そして今、ある学生を研究室で待ちながら、ふとその小さな書評のことを思い出し、ブログに挙げてみたい気になった。

なぜそんな気になったのか、自分でもいまいちよくわからない。

雪の降る中、その学生との面談があるからと大学に来てみたけれど、学生は一向に姿を現さず、ぽっかりと空いてしまった時間を持て余してしまったからかもしれない。

あるいは、重松清の小説にベケットの『ゴドーを待ちながら』をもじった「後藤を待ちながら」という短編があり、その連想がいくつもの連想を呼んだ結果なのかもしれない。

うーん……前置きが長い! とりあえず書評、挙げます。
読んで頂き、重松清の『十字架』を手に取ろうという気になってもらえれば(「後藤を待ちながら」でもOKですけれど)、これ以上の喜びはありません。

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重松清『十字架』(講談社文庫)

近年、「ポジティブであることの大切さ」が喧しく叫ばれています。悲劇的な描写を含む物語は「悲しくなるから」という理由で嫌われ、前向きであり、「スカッ」とストレスを発散させてくれるような物語が好まれる傾向にあるようです。もちろん、ポジティブであることは大切ですし、一歩前に踏み出すことの重要性は言うまでもありません。ただ、もしそれが見たくないものから目を背けるための方便として、あるいは悲劇的な事実を考えることを避けるための言い訳として使われているならば、どうでしょう。紹介する重松清の『十字架』は、そんなことを改めて考えさせてくれる本です。

物語は、中学時代のクラスメイトの自殺について、主人公である真田ゆうが過去を追想するという形式で語られます。20年前、裕のクラスメイトである藤井俊介はいじめに悩み、自死を選びました。その際、遺書に「真田裕様。親友になってくれてありがとう」ということばを残します。ところが、実は裕と俊介は中学に入ってから疎遠であり、しかも俊介がいじめられていたとき裕はただ黙って見ている側に立っていたのです。裕はなぜ親友と呼ばれたのかわからず、またそのことばの重みに苦しみます。しかし、他のクラスメイトのように、直接いじめに関わっていないことを言い訳に事件から逃げることはできず、残された遺族との関係の在り様を模索しながら、長い年月をかけその出来事の「十字架」を引き受けようと努力します。

重松清らしい簡潔な文体は、読み手の心に直に届き、本当に一歩を踏み出すとはどういうことかを私たちに問いかけます。是非読んで頂きたい一冊です。


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昨日トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。

専門家も含め、ほとんど誰もが大統領選挙に勝つとは思っていなかった。

しかし、英国のEU離脱のときと同様、「そこまでは起こらないだろう」ということが現実に起る結果となった。

実は先週11/4にブログを久しぶりに更新しようと思い、次のようなことを書き出していた。

<アメリカ大統領選挙に思うこと>

来週の投票を控え、またトランプ氏が盛り返しているという。

世論調査によれば、二週間ほど前には78ポイントほどあった差が、現在ではほとんどなくなっているとのこと。

以前どこかのテレビ局の街頭インタビューで、一人のアメリカ人(その人は白人男性であったが、バックグラウンドまではわからない)が語っていたことが印象的だ。

彼の趣旨は、トランプのダメさ加減はわかっている、けれども、それでも一度彼にやらせてみてもよいのでは、というものだった。

変化への渇望。

そこには既存の体制への失望と嫌悪がある。


もちろん、この時点で、まさかトランプが実際に勝利してしまうとは考えていなかった。その意味で私は、アメリカの特に白人低所得者層に渦巻く不満、不安、憎悪を全く見誤っていたと言える。だが、トランプの掲げる政策(?)によっては何も変わらないと考えるひとが、つまり本質的な問題はそこにはないと考えるひとがもっと多いだろうと考えていた。


一夜が明け、今後起こるであろうことも含め、今世界で何が起こっているのかを読むことができないでいる。自らの勉強不足を恥じるばかりであるが、リーマンショックという経済恐慌を経て
8年、保護主義へと走る姿勢はどこか第二次世界大戦前夜に似ているようにも映る。

グローバリズムによる国境破壊の終焉とみる向きもあるが、果たしてそれはグローバリズムによってもたらされた絶望的なほどの格差拡大を解決することにつながるのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。

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年初には今年こそ定期的な更新をと思いながら、またもその決意を反故にしかけている自分が情けない。だが、今月から雑感という形で、月に一度は何か書いていきたい。(と考えたのが6月下旬。そこからグズグズしている間に月を跨いでしまい、7月となってしまいました。。。ですが、タイトルは「7月雑感」とはしないでおきます。)


まずジョコビッチについて。


このブログの実質的最初の記事であるテニスのジョコビッチが生涯グランドスラム(=キャリア中に4つのメジャー大会を優勝すること)を達成した。もう時機を逸してしまったし、次のグランドスラムであるウィンブルドンも始まっており、何よりジョコビッチが負けそうになっている現在(*昨夜、サム・クエリーに2セットを先取されたところで日没順延となり、かろうじて残っている状態)、イマサラ感は否めないのだけれど、記念的・備忘録的な意味で、一ファンとして何か記事を書いておきたいなと思う。


2008年に私自身が12年ぶりにテニスを再開したとき、私とグリップの握りが似ているからというただそれだけの理由から、その年の全豪オープンを優勝したジョコビッチに注目するようになった。しかし、ジョコビッチはその最初のグランドスラムを取って以降三年間、一度もグランドスラムを取ることはできなかった。フェデラーとナダルの影でもがき続け、常に二人の後塵を拝し、さらにはデルポトロら下の世代にも迫られる、そんな時期が続いた。


フォアハンドもバックハンドも穴がなく、ベースライン際では無類の強さを発揮するのに、せっかく追い詰めたところでスマッシュミス。相手選手がロブをあげるたびにはらはらした。平常心ではほとんどミスをせず精密機械と言われているのに、大事なポイントでビビってしまい、守りに入る。むなしくネットにかかるドロップショットミスを何度見たかしれない。当時WOWOW解説者だった柳さんからは「なんで[ふつうに]打たないんですかねー」と言われてしまう始末。だから、いずれナンバー1になることはあっても、グランドスラムを数度優勝することはあっても、まさかグランドスラムを12回も優勝し、生涯グランドスラムまで達成するような選手になるとは想像もしていなかった。


もちろん、当時もランキングナンバー3の選手であり、トッププロ中のトッププロだったのだから、強いのは当たり前だ。しかし、ジョコビッチには強さとともに弱さが同居していた。それは技術的な面でも、精神的な面でも。素人の私がこんなことを言うのも本当におこがましいのだが、試合中の精神的な起伏の激しさは、当時のジョコビッチの試合を見たものであればどんな人でもすぐに気づいたはずだ。


しかし、ある意味で、そうした危うさがジョコビッチの独特の魅力となっていた。飽きることなく応援を続けることができたのも、そのことが大きかったのかもしれない。例えば、2010年の全米オープン準決勝。全米では一度も勝ったことのないフェデラーに、弱気なショットからダブルのマッチポイントを握られたときのジョコビッチは忘れられない。またフェデラーに勝てないのか。誰もがそう思ったそのときそれまでの弱気を払しょくし、クロスにフォアハンドのリターンエースを決めてみせた。その攻めの姿勢により最終的にジョコビッチは初めて全米でフェデラーより勝利をもぎ取るのだが、そこにはそれまで3年間のドラマが凝縮されているような瞬間であったと思う。


この2年ほどのジョコビッチは本当に当時とは別次元のようなテニスを展開している。そこには観るものの想像を超える恐ろしいまでの努力があったのだろうと思う。有名なグルテン・フリーによる食事制限はもちろんのこと、毎年毎大会、自分に足りない技術を習得して大会に臨み、かつて苦手であったはずのスマッシュやボレーは改善され、特にドロップショットなどは今やジョコビッチの武器のひとつとすらなっている。フォアハンドのアングルショット、バックハンドのダウンザラインの精度も以前とは比べ物にならず、(時々ラケットをバキバキにする悪癖はあるにせよ)メンタルの起伏も驚くほどになくなった。


それでも、生涯グランドスラムのかかった全仏は特別な舞台であった。昨年は本当に完璧なテニスでナダルに勝利したにもかかわらず、決勝ではワウリンカに敗れてしまった。肉体的な疲労もあったろうが、やはり勝ちたいと思ったときの精神的なコントロールが難しかったのだろうと思う。そして表彰式で流した涙。その涙が今年報われたということは、本当に本当にうれしい(その陰でグランドスラム決勝10回目にして8敗目を喫したマレーの悔しさに満ちた表情も忘れられないけれど。本当にいろいろなドラマがあるなぁ)。


生涯グランドスラムも達成により、ジョコビッチはウィンブルドンでは早々に負けてしまうかもしれない。ファンとしても、ちょっとほっとしてしまっているところがあって、もちろん年間グランドスラムやゴールデンスラムを達成してほしいのだけれど、なんだかそれは欲張りすぎるかなとも思ってしまう。このあたりでフェデラーの復活や、錦織のグランドスラム初優勝(それはなんだか全米で達成されそうな気がするし、その方がドラマ性もあってよいかなとも思ったり)も見てみたい気もするが、さてどうなるだろう。

 
 長くなってしまったので、ひとまずここまで。

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一昨日、年初に企画した今野晴貴氏の特別講演「ブラックバイト問題の背景と対処術」を無事終えることができた。このブログで事前告知をしようと思ったのだけれど、閑散としたこのブログでは効果もないし、何より今回は大学内の学生・教職員向けとして企画したため、やらないほうが良いかなと思い直し、やめにした。(でも、事後告知なら良いかな、ということで今書いている次第。。。)


今野晴貴氏は言わずと知れた「ブラック企業」という言葉を世に広めた著名人であり、そうした方が縁もゆかりもない私のような一大学人の講演依頼を即快諾してくださるなんて、まさに夢のようであった。


また、満足な講演料もお渡しできない中、学生や教員を啓発したいという使命感から、A4レジュメ9枚にわたる熱のこもった講演をしていただいたことに、本当にありがたい気持ちでいっぱいである。この場を借りて改めて感謝申しあげたい。


実際に現場で日々問題と向き合っている今野氏の言葉はとても重く、また氏が実際に携わった事例から見えてくるブラックバイト問題の根深さに、学生たちの目の色は講演中どんどん変わっていったのが印象的だった。


普段なかなか自分から質問しようとしない学生が多い電大において、質疑応答で積極的に挙手する学生の姿は忘れられない。


150名以上の参加者それぞれが、自分なりに問題意識を形成し、困難な状況に直面した時の考える礎となってくれれば、企画者としては望外の喜びである。


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夏休みにひとつぐらいは投稿を、と思いつつ、激変する日本の政治状況への理解を深めようと乱読していたら、もう夏休みが終わってしまった。

日本についてはまた別の機会にじっくりと書こうと思うが、ふと海の向こうのアメリカに目を転じてみれば、共和党の予備選挙がずいぶんなことになっている。もちろんトランプ氏の問題もあるのだが、CNNの次の一節を読み、何だか今の日本を包む雰囲気と通底するものを感じ暗澹としてしまった。

The top three contenders underscore a key theme in the 2016 race: In a jampacked GOP presidential field, the leading candidates are the only ones who have never held political office.

http://edition.cnn.com/2015/09/20/politics/carly-fiorina-donald-trump-republican-2016-poll/index.html?iid=ob_article_organicsidebar_expansion&iref=obnetwork


記事はトランプ氏が支持を落とす代わりにフィオリーナ氏が支持を大きく伸ばし二番手に躍り出たというもの。現段階における支持は今後大きく変動する可能性があり、それほど重要視する必要はないのかもしれない。しかし、引用した記事の中で、上記二氏に加え三番手に付けるカールソン氏まで、三人とも政治経験がないという点には少々驚いた。CNNがそれをa key theme(鍵となるテーマ)と述べているのはさすがだが、乱立する候補者の中でそうした人物が出てくる背景には、現行の政治状況へのいかんともし難い憤懣と閉塞感が渦巻いているのだろう。


何より危惧されるのは、こうした状況でアメリカがより「反知性主義」の方向へ進みかねないことである。「無教養主義」という意味での「反知性主義」の広がりはアメリカで(そして日本でも)現在顕著に見られる傾向である。「反知性主義」の最も恐ろしいところは、今を生きる自分の感覚にのみ依拠することにより、歴史を省みる視点、そして自己を省みる視点が欠けていくことにある。自分の感覚の絶対化(=自分が感覚的におかしいと思うことは、きっと間違っているに違いないと思い込むこと)は、やがて自分を相対化する目を失い、自分と同じ意見のものしか目を向けることがなくなっていく。その先にあるのは、果たして……


とはいえ、この夏の勉強では、それをどのように克服していけばよいのか、そのヴィジョンは見出せていない。こうした状況と闘うための「ことば」、あるいは理論的な構築は必須であるが、それはどのようなものなのか。あるいはそうした理論的構築だけでよいのか。混迷の時代にその方向性を見出すことは急務である。


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1年半ぶりの投稿。

正直このブログをどうしたものかと思っていたが、やはりこういう発信媒体も必要だと年初に思い直し再開を決意。しかし、先月の26日から今月1日までニューヨークで開催されていた第四回国際ポー学会での口頭発表の準備に忙殺され、結局こんなに記事を書くのが遅くなってしまった(このブログを奇特にもこれまで読んでくださったことのある方なら、毎度のこととご理解していただけることと思います)。

とはいえ、年初にすでにいくつか記事のアイディアはあり、そのひとつが今回取り上げた、内田樹氏の著作『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)についてである(以下敬称略)。

内田樹の著作はこれまでにもそれ相応の数を読んできたが、この著作はこれまで読んだどの著作よりも素晴らしいものだと思う。『ためらいの倫理学』も『他者と死者』も『街場の教育論』も好きだけれど、これはそれらを超えるものではないか。それは彼のレヴィナスへの「愛」の深さゆえだろうか。

この著書は次の3つの章から成り立つ。

1章 他者と主体
2章 非‐観想的現象学
3章 愛の現象学

前半の2つの章で特に目を引くのは、レヴィナスの「他者」についての深い洞察である。レヴィナスの著作を横断的に引用しながら、レヴィナスが示そうとする「他者」の難解さがどこにあるのか、内田はその要諦を見事に解きほぐす。後半の「愛の現象学」においては、父権性的女性論として非難されることの多いレヴィナスの「住まい」と「女性的なもの」を巡る考察について、なぜあえてレヴィナスは誤解を受けるような用語を使って論を構築したのかという独自の疑問から、レヴィナスのことばの裏側に潜む思想性を掘り起こす。

と書き出してみたが、やはりそれぞれの章が非常に凝縮した中身の濃い論であるため、なかなか一度ではまとめきれなさそうである(まとめられるかさえわからないけれど……)。よって、今後数回に分けて記事を書くことにして、今回はまず第一章で特に興味深いと思われる、レヴィナスの他者論と二つの「私」のあり様についてちょいと考えてみたい。

レヴィナスの他者の難解さ――内田によれば、その理由の一つは、それが「難解な概念」であるというよりは、むしろ「他者」が「そのつど「私」と同時に新たに生起する」(70)からである。「私」と「他者」は「あらかじめ独立した二項として、自存的に対峙しているのではなく、出来事として同時に生成する」(70)。つまり、「私」のあり様によって「他者」のあり様も変わってくるということなのだ。

内田の整理によれば、私のあり様には二つの様態があるという。

①「全体性を志向する私」⇒術語的には「自己」(Soi)/オデュッセウス的
②「無限を志向する私」⇒主体/アブラハム的

しかしながら、①のような私のあり様では、「他なるもの」は自分とは絶対的に異なる「他者」として現れることはない。それは常に自己によって征服され、所有され、統合されてしまうからだ。以下、長いが内田の説明を引用する。

 オデュッセウスの冒険は、「未知なもの」を絶えず「既知」に還元することをその本義とする。彼が異郷を彷徨うのは、より包括的な全体性を構築するため、彼の「世界カタログ」をより精密で豊かなものにするためである。
 オデュッセウス的「自己」にとって「他なるもの」(l’autre)とは、「自己ならざるもの」一般のことである。それらは経験され、征服され、所有されるためにのみ存在する。「他なるもの」はたしかに一時的には「非-自己」、つまり自己とは異他的なものとして認知されはするのだが、それは「同一者」(le Même)の帝国のうちに最終的に統合されるためにである。「未知の大陸」の未知性が高ければ高いほど、それを既知に回収したいと望む帝国主義的開拓者の冒険心は高揚する。自己にとっての「非‐自己」自己にとっての非-自己の異他性とは、そのようにして同化・吸収の欲望を亢進させるものに他ならない。(71‐72)
 全体性を志向する「自己」には「外部」がない。というより、「自己」は構造的に「外部」を持つことができないのである。なぜなら、全体性志向とは「理解を超えるもの」を命名し、「おのれの容量を超えるもの」を適正なサイズに切り縮める、脈絡なく散乱したものを一つの「物語」のうちに取りまとめる、人間に授けられた法外な知的能力の別名だからである。
 だから、理解を超えるものや、巨怪なものは、「自己」にとって、いささかも忌避すべきものではない。「自己」は絶えず「未知のもの」を新たな征服対象として探し求める。「他なるもの」が自己に摂取され、自己を富裕化し、自己を豊かに養ってくれるからである。この「他なるものの『同一者』への変質」(TI, p.113)こそが「自己」の本質なのである。(72)

本書で内田は直接的に述べてはいるわけではないが、この<帝国主義的「自己」>、「流動的で、冒険的で、英雄的な」自己は現在のグローバリズム社会の問題と通底し、そこでの自己のもつ暴力性を暴きだしているといえるだろう。これに対し、アブラハム的主体は、「他なるもの」を同化・吸収し、享受することがない。それはアブラハム的主体が「他なるもの」のうちに自らが認識や理解を超え出るものを、つまりその「予見不能性」(imprèvisibilité)を認め、自己の無力さ、つまり私が「認識することも知覚することもできない」という無能の覚知に至るからである。そしてまさにその時にこそ、「他者」は顕現する。

これに対して、アブラハム的な「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」(l’absolument autre)すなわち「他者」(Autrui)である。「他なるもの」と「他者」は言葉は似ているが、峻別されなければならない。(76)
私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。「他者」は私の全能性の翳りのうちに住まうのである。(78)

さらに、内田はアブラハム的主体とオデュッセウス的自己の孤独の深い隔たりにも言及する。内田は言う、「オデュッセウス的主体は、結局「他者」との対面状況から撤退してしまうからである」と。
オデュッセウス的自己は、「他なるもの」を経験しつつ、「私はいま……を経験している」というふうに、「経験しつつあるおのれ」を冷静に記述している「まなざし」に自己同定する。出来事の渦中にありながら、それを局外から記述する視点にシームレスに移行することができるその「後退」の能力、それがオデュッセウス的主体の生命線である。まるで一枚のガラスが世界と私とを隔てているように、「他者」の「他者性」は私から隔絶されている。それがオデュッセウス的主体の孤独の様態である。オデュッセウス的主体は出来事を経験しつつ、実は、それに「かかわりを持たない」(non-engagement)のである。「すべてが与えられているのだが、そのすべてがよそよそしい」(EE, p.144)のである。(81)

ここで示唆的なのは、オデュッセウスが持つ「まなざし」である。アイデンティティ探求の物語であり、また謎を解くという意味では探偵小説の原型でもあるオデュッセウスの物語が、孤独の「まなざし」の中に「他なるもの」を享受してしまっていることの持つ意味は非常に大きい。というのも、モダンが「他なるもの」を囲い込み、享受してきたことについて、われわれはこれまで大いに批判し、また反省してきたにもかかわらず、実のところ現在においても、われわれはその「他なるもの」を囲い込む「まなざし」に大きく捉われており、オデュッセウス的自己から逃れられていないからである。謎解き、アイデンティティ、あるいはファンタジーを巡る物語がその大半を占める現状は、その動かし難い証左ではないだろうか。そうしたポストモダン状況にあって、いかにこのオデュッセウス的自己のあり方とは別のあり方ができるか、というのはきわめて重要な視点である。

その意味で、アブラハム的な孤独のあり様はそのひとつの視座となりうる。アブラハムの孤独――それは「他者」である神のことばを推察する公共的準則を持っていないながら、自らの責任においてそれを解釈する、つまり「絶対的な仕方で」責任を引き受ける、「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」=主体であるからだ。(このあたりはちょっと私の理解が追いつかず、自信はないけれど)

アブラハムの主体性は、理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し、生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。この主体性が、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、何ものも彼の行動を根拠づけてくれないという絶対的な無根拠に耐えたことによって、彼が神と親しんだことによってでなく、神との近接のうちに絶望的な孤独を味わったことによって獲得されたのである。(85)

この後第二章において、内田はこのテーマを別のかたち、すなわちフッサールとレヴィナスの分岐点がどこに存在するかという視点から、解き明かそうと試みる。フッサールもレヴィナスもどちらもが「他者」を問題にしながら、なぜ二人の「他者」は最終的にまったく別種のものとなるのかという問いに対し、内田はレヴィナスの論考を丁寧に辿りながら上記の「まなざし」の問題をわかりやすく、かつ示唆に富むかたちで語っている。

だが、このことについては、また稿を改めて書きたい。


ふくしま
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また半年振りの投稿。
(まじめなものになると、どうもこれが私の精一杯のペースのようです…)

先週末、最後の授業が終わってほっとしているところで、ヤフーニュースに次のような記事を見つけた。

「つながっていても孤独」という不思議
ソーシャル化する社会が世界を大きく変え始めた~第42回
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20131010-00038870-biz_jbp_j-nb

この記事が伝えるところをかいつまんで言えば、次の3点。

①ソーシャルメディアがもたらす「つながり」の薄さ。
②孤独を避けるため「つながっている」という状態にどっぷりと漬かりすぎ、逆に「つながっていない」時に余計孤独を感じてしまうという皮肉。
③あるいは、孤独であることがあたかも罪悪であるように見えてきてしまうという意識の変化。

ということで、論点としてはありきたりで、別段面白い視点を提供してくれるわけでもない。

しかし逆に、そうしたありきたりであることが、現代のわたしたちが否応なくとらわれてしまっているある認識の危険さを物語っているようで興味深い。

それは、「つながる」ということばへの無条件の信頼であり、そのことばが含みこんでいる「自己中心的な<身振り(=態度)>」への無関心さである。

以下、この「つながる」のもつ意味合いについて、少し考えてみたい。

「つながる」が表象する自己と他者の関係
 「つながる」ということば、それは一見<能動的な行為>を表しているように感じられる。「○○につながる」という発話は、話者の<意志>によって、○○という状況にコミットしていくように感知されうる。しかし、そのことばが本来意味するところは、「離れているものが結ばれて、ひと続きになる」(『大辞泉』)という状態であり、意志ではない。

 つまり、「つながる」とは二点を結んだ線的な関係を表すことばでしかなく、そこには「つなげる」のような「困難を乗り越え二つのものを接合する」という力強さは存在しないのである。それゆえ「つながる」は、既存のネットワークに自分も「つながる」くらいの能動的な意味しか有していない。それは、お手軽で、極めて消極的な行為を表すことばなのである。

 ソーシャルメディアにおいて「つながる」ことを欲してやまない人たちに共通すること――それは、その想いが常に<自分>を中心に回っていることだろう。自分が孤独から逃れるため、自分が考えていることに共感してほしいため、あるいは自分が人から好かれていることを再確認するため。つながる理由はさまざまであるが、その動機は他者や外界のものに触発された関心であるというよりはむしろ、自分を認めてほしいという承認欲求であり、自己中心的なものに他ならない。言い換えるならば、それは他者自身に対してむけられた関心ではなく、他者が自分とともにいてくれることへの関心である。ゆえに、極論すれば他者は誰でもかまわない。自分のことを「わかって」くれさえすれば、どんな人でもかまわないのである。

 ジークムント・バウマンは、『ポストモダン・エシックス』において、人間の倫理的関係とは、他者と共にある関係(being with the Other)ではなく、他者へと向かう関係(being for the Other)であると指摘した。しかし、「つながり」を求めるものにとって、他者は自分とともにあり、自分を「わかってくれる」存在以上のものではない。だから、他者が自分とは異質な存在であり、そのことによって自分が不快に感じたり、嫌な思いをしたりすれば、その「つながり」を絶ち切ることへのためらいは極めて薄い。「つながる」とは、自分が正しいこと、自分が慰められること、自分が独りではないことを証明してくれる人との「つながり」なのであり、そうではない人はそのネットワークから排除される。「つながり」を求めるものにとって、他者とは常に代替可能な存在なのである。
 
 しかし、その代替可能性こそが皮肉なことに「つながり」を求めるものにとって言い知れない不安を呼び起こす。というのも、自分が他者を代替可能とみなしているということは、すなわち他者も自分のことを代替可能とみなしている可能性が高いということを示唆するからだ。この自己の代替可能性への転落はアイデンティティを著しく傷つける。彼らは常に自分が「切られるかもしれない」という潜在的な不安に怯えなければならないし、それ故より一層自己の殻へと閉じこもらざるをえない。「つながる」ことを欲するものたち――彼らは、自己を保護するために他者をモノ化することで、逆に自分がモノ化されてしまう悪循環に知らず陥ってしまっている。
 
 こうした意味で、「つながる」は一時期大いにはやった「癒される」ということばとその問題を一にしている。
「癒される」ということばは、例えば「あー、癒されたい」とか「癒してくれる人がほしい」、あるいは「癒しの○○」というように使用され、主にストレスを極度に抱えた現代人の心の叫びのように繰り返しメディアを賑わした。だが、「あー、癒したい」とか「癒してあげる人がほしい」といったような使用例はほとんど聞かなかったし、今でも聞かない(まあ、それはなんだか別の意味でちょっとコワいような気もするけれど・・・)。

 この事例はやや陳腐にすぎるかもしれないが、そのばかばかしさとは裏腹に、二つの重要な論点を隠し持っている。ひとつは、「つながる」の場合と同様に、ここでもそのコミュニケーションが極めて<自己中心的な想い>によって占拠されているということ。もうひとつは、そうした「自己中心的」であることが、別段批判の対象にはならないということ。特に後者は、その裏に「人間というものは結局利己的で自己中心的なものである」というシニカルな認識が透けて見えてくるため、より一層深刻である。というのも、そうした認識は自己中心的であることに妥当性を与え、そうした自己中心的な態度を正当化してしまうからである。

 もちろん、人間が生物である以上、程度の差こそあれ誰もが自己中心的な側面を持ち合わせている。だから、「癒されたい」と思う気持ちを持つことが悪いわけではないし、そうしたことばが自然に口をついて出てくる場面もしばしばあるだろう(私もそうだ)。ただ、一方で受動的な身振りであることへの自己批判的態度を失ってしまえば、どうなるだろうか? 「癒されたい」という<自己中心的な想い>への後ろめたさを、あるいは「癒される」ことよりも「癒す」ことへと意識を向けようとする意志の力を、もし偽善として非難し無力化してしまうならば、後にはただ冷笑的な人間観に基づいた寒々しい人間関係しか残らないだろう。そこでは、他者は<自己を幸せにしてくれる>という基準でしか意味を与えられず、モノ化した存在へと還元されてしまう。そして皮肉にも、「つながり」を求めるものはそうした他者との断絶の中で<真のつながり>を求めて苦悶する。

 こうした<身振り>は、現在、ソーシャルメディアに限らずあらゆるコミュニケーションにおいて見られるものである。それがソーシャルメディアにおいてより顕在化して見えるのは、ただそこでの関係が実生活ほどに断ち切ることが難しくないという、それだけの理由に過ぎない。「つながる」が示唆する問題は今わたしたちが直面するコミュニケーションの根幹に潜む問題である。そのことをしっかりと認識することが、翻ってSNS中毒者の問題を考えることにもつながるのではないだろうか。
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 半年以上ぶりの投稿。

 友人のTaku君がブログでこの本を紹介していたので気になって読んでみたところ、最近私が考えていた事柄と意外にリンクする話だったので、「これはよい機会だ、何か書いてみよう」と決意した次第。(こうした決意がないとなかなか更新できません・・・)

 まず面白いなと思ったのが、本書で紹介されている「分人」という概念。それについて簡単に説明すると次のようになる。


individual(=個人)とは、語源からもわかるとおり、「わけることのできないもの」、「それ以上はもう分割できないもの」を指すことばである。だが、このように考えてしまうと、ひとにはあたかも「ひとりの分割できない自分」、つまり「本物の自分」のようなものがあって、そこを起点として自己を考えてしまいがちになる。言い換えるなら、「本物の自分/偽物の自分」という図式によって自己を捉えてしまうのだ。それはまた、唯一無二の「本当の自分」という神話を容易に創りだし、それにがんじがらめにされてしまう危険を孕んでいるとも言える。
また、他者のことを考える場合においても、個人を「それ以上はもう分割できないもの」と捉えることは問題が生じやすい。というのも、そうした考えは、対人関係ごとに見せる他者の複数の顔を、「表の顔/裏の顔」という二項対立によって理解するよう促してしまうからだ。例えば、A君はB君といる時にはバカみたいな話しかしないが、ブログではC君やネット仲間と社会問題についてものすごく熱く語っている。これを「本物/偽物」の対立軸で考えてしまうと、どうしても前者が偽物で後者が本物であるような錯覚を抱かせてしまう。B君がその事実を知ったら、あるいは憤ってしまうかもしれない、「あいつは「本当の」自分を俺には隠していて、もしかしたらいつも俺のことを影で馬鹿にしていたんじゃないか?」、と。

だが、そうだろうか、と平野氏は問う。A君には、B君とのバカみたいな話をするA君もいる一方で、ブログでまじめな話をするA君も矛盾なく同居しているのではないか? どちらもA君自身のもつ個性なのではないか? 
そこで、この対人関係ごとに見せる複数の顔それぞれをわかりやすく認識する道具立てとして、平野氏は「分人」という概念を導入する。例えば、ひとには恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人など複数の「分人」が存在する。平野氏の言葉を借りれば、

「分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会うだけでなく、ネットのみで交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
「一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
「個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。
「私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。
「分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。」(7‐8)

(書き出してみたら、「簡単」にはなりませんでした…すみません)


 著者の平野氏はこの「分人」という概念が現代の諸問題を考える上で非常に有効であることをさまざまな点から論じる。その詳細は煩雑になってしまうため割愛するが(著作を読んでみてください)、「分人主義」の考え方について<優れている点>をまとめるとしたら次の4つの点が挙げられるだろう。


<分人主義の優れている点>
① 自己に対して寛容になれる。自己を肯定できる。
② いじめられたり、仕事でうまくいかないといった、自己のアイデンティティを著しく傷つけられる経験をしている人にとって、救いとなる。
③ ともすると他者を「裏/表」として見てしまうことを是正してくれる
④ 個人化した現代社会において、他者との関係、他者との連帯を、「個人」という概念とは別の角度から理解することを可能にしてくれる。


 ①、②について、例えば平野氏は次のように述べている。

「学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習をしたり、自宅で両親と過ごしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人こそを足場として、生きる道を考えるべきである。」(94)

 これはいじめを受けている人、あるいは受けたことをトラウマとして抱えている人にとって、非常に救いになる考え方だろう。
 私もいじめられた経験があるが、その頃はどうしても「自分=いじめられる人」と考えてしまい、どこへいっても「自分はいじめられているイケてないやつなんだ」という否定的な考えを拭うことができなかった。
特に思春期の若者にとって、自己に対する狭い視野を広げ、より包括的に捉えることはなかなかに難しい。こうした概念を取り入れることより、そうした視野を無理なく自分のものとすることができるのは大きいだろう。


 ③については、先の「分人」の概念を説明した箇所でも述べた通り、この分人という考え方を用いることによって、ひとりの人間には様々な要素があり、それぞれの場面に応じた様々な顔があるのだということを認めやすくなる。自分の知っている部分だけがその人の全人格であるという誤った認識は、人と人との関係を暗く、こじれたものにしてしまいがちだが、分人であることを前提にすればその感覚を(自然と)正してくれるだろう。


 ④に関しては、次のような点がとりわけ重要だ。

「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。」(98)

「分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要とせずに自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きにすれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。」(125)


 こうして見ると、分人主義という考え方は、①、②、③のような自己と他者の人格の捉え方のみならず、④のような自己と他者がどのようにつながっているのか、その関係性を含み込んでいる点に特徴があるように思われる。平野氏は④についてさらに次のような説明も加えている。


「個人は、確かに分けられない。しかし、他者とは明瞭に分けられる。区別される。だからこそ、義務や責任の独立した主体とされている。
「栄光を掴めば、それは、他者とは違うあなたがしたことだ。他者は、それにまったく無関係である。罪を犯せば、それはやはりあなたがしたことで、他の人間は無関係である。金持ちになっても貧乏になっても、すべては他者とは分けられたあなたの問題だ。
「しかし、私たちは、分人化という現象を丁寧に見てきて、この考え方が根本的に間違っていることを知っている。人間は、他者との分人の集合体だ。あなたが何をしようと、その半分は他者のお陰であり、他者のせいだ。
「個人individualは、他者との関係においては、分割可能dividualである。逆説的に聞こえるかもしれないが、それが、論理学より発展した、この単語の意味である。
「そして、分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能individualである。もっと強い言葉で言い換えよう。個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。それは、個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合するのとは逆に、単位を小さくすることによって、きめ細やかな繋がりを発見させる思想である。」(164)


 あるいは、この「分人主義」という考え方に対して、「単に至極当然のことを再度確認しているにすぎないのではないか」という印象を持たれる方もいるかもしれない(実際、著者の平野氏自身も「多くの人が既に知っていること」と認めており、その上で本書執筆の目的を「明瞭には語られてこなかった」ものを議論するための「足場」作りの整備と規定している)。しかし、ある意味では、こうした当然とも思えることが「分人」という新しい概念によって再度語られねばならないほど、現代社会はあまりにも個人化し、個々人が分断されてしまっているとも言えるだろう。自己責任が声高に叫ばれる社会にあって、われわれは確実に他者との「連帯」感を持つことが難しくなっている。その中で、分人主義はある種のわれわれの拠り所になる可能性を秘めているし、少なくとも著者の言うように議論の足場になってくれるものではないだろうか。(以前「バウマンとメディア」という記事をこのブログにも書いたが、このindividualized society(個人化社会)の問題は、われわれが社会の問題を個人の問題にすり替えてしまう暴力を含んでいる。この点はまた日を改めて考えてみたい)。



 さて、ここまで分人主義の良い面に光を当ててきた。だが、最後に、分人主義に関するいくつかの(大きな)疑問点についても簡単に記述しておきたい。私自身、分人主義は面白い論点・視点を提供してくれていると思うのだが、その反面、次の点ではどうも腑に落ちないところがあるのだ。


<分人主義の疑問点>
① 分人という概念の中にも、予めそれを統合した「自己」というものが「個性」として措定されてしまっているのではないか?
② 「愛」の問題にうまく応えることができないのではないか?
③ 個人の「他者への責任」については、考えることができなくなってしまうのではないか?


 ①については、単なる印象でしかないのだが、本書の中で「個性」という語が頻繁に書かれている点が、少し引っかかる。個人を分け、様々な人間との関わりの分だけ「分人」を持つ、というのが「分人主義」の重要な考え方だと思うのだが、「個性」ということばを使うとき、どうもその語はそれら「分人」を統合した<主体>を(予め)想起しているように思われて仕方がないのだ。つまり、結局は「分人」というのは、一個の主体のもつ様々な要素にすぎないと。もちろん、「分人」とは他者との関係性によって自己が成り立っていることをわかりやすく提示するための概念であるから、そのあたりの矛盾は仕方がないのかもしれないが、「個人はさまざまな顔を持ち、われわれは他者を十全には知ることができない」とするだけでは不十分なのだろうかとも思ってしまったりもする。


 ②の疑問は次の箇所を読んだときに生まれたもの。

「愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって相手が自らを愛せるようになることだ」(138)

 「自分が自分のことを愛することができること、相手といて心地よい気持ちになれること」というのは愛の一側面ではあるが、このようにだけ定義してしまうと、「分人主義」における「愛」は、結局非常に「個人的」な愛しか語れなくなってしまうのではないか。分人主義は「個人」ではなく「分人」であることに主眼を置くにもかかわらず、愛が「自己(=個人)を愛することができる」あるいは「自己が心地よくいられる」と言うように個人に還元されてしまう点はどうにも矛盾しているように感じられてしまう。


 最後に③について。
 「分人主義」における「自分があるのは他者のおかげ」という感覚は、確かになんとなく「しっくりくる」、特に日本のムラ社会的、集団主義的土壌で育った者にとっては。しかし、その裏返しとして、③の問題は残されたままなのではないか。
 「分人主義」とはある意味では「お互い様」の文化への回帰である。「私があるのは、半分は他者のおかげ/せいだ」、「他者があるのは、半分は私のおかげ/せいだ」とする「お互い様文化」は、確かに他者との結びつきを強める働きをする。しかし、この「お互い様」の考え方は、個人の責任をあやふやにしてしまうという弊害も含み込んでいるように思われる。つまり、俺がこんな境遇にあるのは半分は他人のせいなんだ、というように、自分の「責任」を他者に転嫁してしまうことを容易にしてしまうのだ。
分人は他者との関係によって我々自身が構成されているということを思い出させてくれる点では大変有意義である。しかし、レヴィナスも述べているように、「責任」とは非対称の関係でなければ成り立たない。俺にも責任があるかもしれないけれど、あいつにも責任はあるんだ。それは責任ではなく、逃げの方便ではなかろうか。「責任=責めを負う」、ということは、たとえ他者にも責任がある状況でさえ、それを述べることなく、責めを自己に引き受けることだと思う。他者がしてくれるからするのではなく、他社が責任をとるから自分も責任をとるのではなく、ただ「他者に対して」行うこと。
 と、まあ、こう書くとあまりに自分に厳しすぎるのかもしれないが、分人主義だけではやはりどこか物足りなく思ってしまう。レヴィナス的倫理観までいかずとも、他者との関わりを「他者への責任」から考える視点はやはり外すことはできないし、むしろそうしたものを含んだ「哲学/倫理」を一般向けに語ることこそ今一番重要なのではないか、そんな風に思う今日この頃である。
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